2013-04-29(Mon)

本伝寺

本伝寺は、大阪府堺市堺区に所在する日蓮正宗の寺院。山号は寿量山。

○起源と歴史
1494年(明応3年)-保田妙本寺の日要が隆門隆珍より家屋の寄進をうけ、堺に弘通所を建立。
1537年(天文6年)11月14日-広蔵院日辰が種脱得意抄を著す
1623年(元和9年)-良運院日啓師により再建される。
1662年(寛文元年)-雲海院日乗師により再建される。
1875年(明治8年)12月16日-堺本伝寺所属本立講が一致門流妙見朋友講と堺宿院町糊利平宅にて法論を行う。
1936年(昭和11年)12月23日-後の日蓮正宗大石寺66世法主となる日達上人が住職となる。
1945年(昭和20年)7月10日-戦災で焼失する。
1952年(昭和27年)8月18日-戦災復興法要が行われる。

○所在地
大阪府堺市堺区新在家町東2丁2-16

○交通アクセス
阪堺電軌御陵前駅から徒歩5分
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2013-04-29(Mon)

法道寺

法道寺は、大阪市堺市南区にある高野山真言宗の寺院。山号は鉢峯山。本尊は薬師如来。鉢ヶ峯寺とも称される。

○歴史
この寺は、飛鳥時代に法道仙人(空鉢仙人)が開山となって創建した寺と伝えられる。かつては多くの支院・支坊を有し、閑谷院長福寺という名称であった。平安時代前期には空海をはじめ最澄や円仁などがこの寺に参篭したという。多くの寺領が寄進され隆盛をきわめた時期もあったが、兵火にあって衰退した時期もある。江戸時代、8代将軍徳川吉宗の嫡男・長福丸(ながとみまる、後の9代家重)が将軍後継となったため法道寺と改められた。

○文化財
重要文化財
多宝塔
食堂(じきどう)
絹本著色十六羅漢図

○所在地
大阪府堺市南区鉢ヶ峯401

2013-04-29(Mon)

福沢諭吉誕生地

天保5年(1834)12月12日、諭吉は当地にあった中津藩蔵屋敷で生まれた。父百助は諭吉が1歳8か月のとき急死、そのため母につれられ中津へ戻った。中津では儒学を学び、安政元年(1854)長崎遊学を終え江戸へ上る途中大坂の蔵屋敷へ立ち寄ったが、兄のすすめで翌年3月、緒方洪庵の適塾に入門し、後に塾頭になっている。3度にわたる幕府の遣外使節に随行、明治の文明開化啓蒙思想家として活躍、慶応義塾を開設した。
大阪市福島区福島一丁目1玉江橋北詰すぐ
市バス「玉江橋」下車 北東約200m

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2013-04-29(Mon)

摂津国分寺跡

聖武天皇は、天平13年(741)奈良東大寺を総国分寺、法華寺を総国分尼寺とし、全国に国分寺・国分尼寺をおいた。摂津国分寺については、ほとんど知られることがなかったが、この付近から奈良時代の蓮華文や唐草文軒瓦が出土し、国分寺跡と推定されている。
大阪市天王寺区国分町14 国分公園内
市バス「国分町」下車すぐ

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2013-04-29(Mon)

産湯稲荷神社

当社は比売許曽神社の旧社地にあり、現在は御旅所で末社となっている。現地に掲げられていた社記によると「当地の開拓神である大小橋命は天児屋根命の十三世の後胤で、13代成務天皇の御代(4世紀頃?)、ここ味原郷に誕生した。その時、境内の玉の井の水を汲んで産湯に用いたので、この地を「産湯」という。 父は神功皇后の近臣中臣雷大臣、母は紀氏清夫と言い、3人兄弟の長男である」としている。すなわち、大化の改新で活躍した藤原家の祖、中臣鎌足の先祖に当る人である。この誕生のときの胞衣を埋めたと伝わる胞衣塚が比売許曽神社の近くにある。また、一説では生野区にある御勝山は大小橋命の墓であるとも言われ、この地には大小橋命に関わる伝承は多い。
所在地:大阪市天王寺区小橋町3-1
最寄駅:JR環状線、近鉄奈良線、地下鉄千日前線「鶴橋」下車、
千日前通りを西へ約300m、北に入る

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2013-04-29(Mon)

つるのはし跡

『日本書紀』仁徳天皇14年の条に、猪甘津に小橋を作った記事が見える。記録に残る日本最古の橋で、それは平野川(旧大和川)に架けられたものである。名の由来は、鶴が多く集まっていたからとも言われた。また、「津の橋」がなまったからとも言われている。明治7年、平野川浚渫のとき木橋から石橋に架け替えられた。そのときの親柱を記念に残し大きな橋跡の碑が建てられた。
大阪市生野区桃谷三丁目17-22
市バス「桃谷駅筋」下車 東すぐ


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2013-04-29(Mon)

大村益次郎殉難碑

文政7年(1824)周防に生まれた。弘化3年(1846)23歳のとき来坂、適塾に入り僅か1年で塾頭になっている。明治2年(1869)兵部大輔(ひょうぶだいゆう)に任ぜられ、近代陸軍兵制の確立に努力した。しかし不平士族の反感をうけ、同年9月京都で襲撃された。そのとき右脚に重傷をおったが、京都では適切な治療をうけられず、現在の碑の近くにあった浪華仮病院(大福寺から当所へ移転、同頂参照)で右脚切断の手術をうけたが、すでに手後れで敗血症のため死亡した。切断された脚は遺志により、師緒方洪庵夫妻の傍ら(北区竜海禅寺)に葬られている。

大阪市中央区法円坂二丁目 国立大阪病院南東角
市バス「大阪国立病院前」下車すぐ

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2013-04-29(Mon)

池上雪枝感化院跡

神道教導職にあった雪枝は、明治16年(1883)当地でわが国最初の感化院を開くと同時に、授産場も設けた。ここで当時流行しはじめたステッキや洋傘の柄、石鹸などの製造を行いながら少年補導に尽力したが、雪枝没後の明治26年閉鎖した。墓も近くの栗東寺(与力町)にある。

大阪市北区松ヶ枝町3-20地先
市バス「東天満」下車北西約300m

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2013-04-29(Mon)

和泉式部の墓

散策道の中途にある。旧西国街道の伊丹坂に臨む小堂内にある。152cm余りの花崗岩製の五輪塔で、火輪と地輪を欠いている。完全な形であれば総高230cmと推定され、その構造形式は鎌倉調を示している。
所在地: 〒664-0893兵庫県伊丹市春日丘6丁目地内
その他情報:料金/見学時間/休業日 :無料



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2013-04-29(Mon)

少林寺

少林寺は、堺市堺区にある臨済宗大徳寺派黄梅院末に属する寺院。山号は萬年山。

○歴史
1330年に挑源宗悟が開山した。寺号は、開甚大檀越小林修理亮法の姓をとリ「小林寺」としたが、のちに菩提達磨の少林寺にならって「少」の字に改めた。本尊は釈迦牟尼佛、鎮守白蔵主稲荷明神。1906年には禅通寺を合併した。その鎮守である今池弁財天をまつる。かつての寺の境域は、現在の寺地町・少林寺町を合わせ両町の海浜にまで達していたが、寺地の多くを織田信長に没収され次第に衰退していった。しかしその後も、豊臣秀吉が石田三成と小西行長に命じて境内竹木の伐採を禁止するなど、小さな寺ながら名刹の扱いを受けていた。1381年に塔頭耕雲庵の住持白蔵主が、鎮守稲荷明神に參籠して「霊狐」を得る。そして狂言大蔵流の始祖・霊狐の所作を狂言に作り、『釣狐』として上演した。それ以後、狂言や歌舞伎関係者は『釣狐』を上演する際は少林寺に參詣し、技芸の上達上演の成功を祈願。寺内の逆芽竹を1本祈祷してもらった上で持ち帰り、上演の時の杖に使用する慣習になっている。

○所在地
大阪府堺市堺区少林寺町東3-1-18

○交通アクセス
阪堺電気軌道阪堺線寺地町駅徒歩5分

2013-04-29(Mon)

感応寺

感応寺(正式には「感應寺」)は、大阪府堺市南区にある日蓮宗の寺。上神谷妙見(にわだにみょうけん)と通称される。山号は妙見山、本尊は妙見菩薩。

○概要
伝承によれば、645年(大化元年)、唐の僧・法道仙人が北辰(北極星)の霊示を受けて刻んだ、妙見菩薩の像をこの地に安置したのが感応寺の起こりであるという(なお、法道仙人については、唐でなく天竺(インド)の仙人とするのが一般的な伝承である)。その後は尊星降臨の霊場となったという。妙見堂の側壁には、﨔の一刀彫の彫刻が施されている。地元では、所在地の地名をとって「上神谷の妙見さん」と呼ばれている。摂津国の能勢妙見 、河内国の星田妙見とともに「大阪府三大妙見」とも称されるが、交通の便が悪いことなどから知名度は低い。 毎年8月16日に行われる「万灯供養」は、多数の灯籠に火がともり幻想的な風景がみられる。

○その他
泉北高速鉄道線泉ヶ丘駅から、泉北考古資料館、桜井神社、フォレストガーデンなどを通って鉢ヶ峯の法道寺まで向かうハイキングコースが、堺市によって整備されている。感応寺もハイキングルートの中に含まれている。

○所在地
大阪府堺市南区富蔵380

2013-04-29(Mon)

落柿舎

落柿舎は、嵯峨野(京都府京都市右京区)にある草庵。
○概要
松尾芭蕉の弟子、向井去来の別荘として使用されていた草庵で、去来がこの草庵について書いた「落柿舎ノ記」がある。古い家の周囲には40本の柿の木があったという。庭の柿を売る契約をしたのちに、柿がすべて台風で落ちてしまったためこう呼ばれている。 1691年(元禄4年)4月から5月までここに松尾芭蕉が滞在して嵯峨日記を著した。野沢凡兆(ぼんちょう)、凡兆の妻の羽紅(うこう)、去来が訪ねてきて一つの蚊帳で5人が一緒に寝たりしている。 現在の庵は俳人井上重厚による再建である。場所も建物も芭蕉の時代のそれとは異なっている。平成20年12月1日から平成21年9月末まで庵の大規模な修復工事が行なわれた。タンポポの『嵯峨野さやさや』の2番で「雨の落柿舎 たんぼ道」の歌詞で歌われている。

○所在地
京都府京都市右京区嵯峨小倉山緋明神町2

○交通アクセス
JR山陰線 嵯峨嵐山駅 徒歩20分

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2013-04-29(Mon)

野宮神社

野宮神社は、京都市右京区の嵯峨野にある神社である。祭神は野宮大神(天照皇大神)。旧社格は村社で、現在は神社本教の被包括法人となっている。鳥居は樹皮がついたままの「黒木の鳥居」で、古代の鳥居の形式を伝えている。
○祭神
本殿--野宮大神(天照皇大神)
境内社
愛宕大神(本殿右)
白峰弁財天(本殿左)
白福稲荷大明神(本殿より右側の摂社)
大山弁財天(本殿より右側の摂社)
野宮大黒天(ののみやだいこくてん:本殿左)

○歴史
伊勢神宮に奉仕する斎王が伊勢に向う前に潔斎をした「野宮」に由来する神社であると伝えられる。天皇が代替わりすると、未婚の皇女・女王の中から新たな斎王が卜定され、嵯峨野の清らかな場所を選んで作られた野宮に入って一年間潔斎した後に伊勢神宮へ向かった。その時の行列を「斎王群行」といい、現在では毎年10月の例祭において「斎宮行列」としてその様子を再現している。野宮の場所は毎回異なっていたが、嵯峨天皇の代の仁子内親王のときから現在の野宮神社の鎮座地に野宮が作られるようになった。斎王の制度は南北朝時代の後醍醐天皇の代を最後に廃絶し、その後は天照大神を祀る神社として存続していたが、戦乱の中で衰退した。後に後奈良天皇、中御門天皇らの命により再興され、皇室からの厚い崇敬を受けた。境内には苔を用いた美しい庭園として有名な「野宮じゅうたん苔」がある。また、源氏物語「賢木」の巻にも現れ、謡曲「野宮」の題材ともなっている。

○施設
境内社の野宮大黒天は縁結びの神として有名で、大黒天に参詣し、その横の「お亀石」をさすれば願いが叶うと言われている。

○祭礼
嵯峨祭(5月第3・4日曜) - 愛宕神社と合同
斎宮行列(10月第3日曜)

○交通
京福電鉄嵐山本線「嵐山駅」下車、徒歩約10分
京都府京都市右京区嵯峨野々宮町1

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2013-04-29(Mon)

天龍寺

天龍寺は、京都府京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町(すすきのばばちょう)にある、臨済宗天龍寺派大本山の寺院。山号は霊亀山(れいぎざん)。寺号は詳しくは天龍資聖禅寺(てんりゅうしせいぜんじ)と称する。本尊は釈迦如来、開基(創立者)は足利尊氏、開山(初代住職)は夢窓疎石である。足利将軍家と桓武天皇ゆかりの禅寺として壮大な規模と高い格式を誇り、京都五山の第一位とされてきた。「古都京都の文化財」として世界遺産に登録されている。
○歴史
天龍寺の地には平安時代初期、嵯峨天皇の皇后橘嘉智子が開いた檀林寺があった。その後約4世紀を経て荒廃していた檀林寺の地に後嵯峨天皇(在位1242年 - 1246年)とその皇子である亀山天皇(在位1259年 - 1274年)は離宮を営み、「亀山殿」と称した。「亀山」とは、天龍寺の西方にあり紅葉の名所として知られた小倉山のことで、山の姿が亀の甲に似ていることから、この名がある。天龍寺の山号「霊亀山」もこれにちなむ。足利尊氏が後醍醐天皇の菩提を弔うため、大覚寺統(亀山天皇の系統)の離宮であった亀山殿を寺に改めたのが天龍寺である。尊氏は暦応元年/延元3年(1338年)、征夷大将軍となった。後醍醐天皇が吉野で崩御したのは、その翌年の暦応2年/延元4年(1339年)である。足利尊氏は、後醍醐天皇の始めた建武の新政に反発して天皇に反旗をひるがえした人物であり、対する天皇は尊氏追討の命を出している。いわば「かたき」である後醍醐天皇の崩御に際して、その菩提を弔う寺院の建立を尊氏に強く勧めたのは、当時、武家からも尊崇を受けていた禅僧・夢窓疎石であった。寺号は、当初は年号をとって「暦応資聖禅寺」と称する予定であったが、尊氏の弟・足利直義が、寺の南の大堰川(保津川)に金龍の舞う夢を見たことから「天龍資聖禅寺」と改めたという。寺の建設資金調達のため、天龍寺船という貿易船(寺社造営料唐船)が仕立てられたことは著名である。落慶供養は後醍醐天皇七回忌の康永4年(1345年)に行われた。天龍寺は京都五山の第一として栄え、寺域は約950万平方メートル、現在の嵐電帷子ノ辻駅あたりにまで及ぶ広大なもので、子院150か寺を数えたという。しかし、その後のたびたびの火災により、創建当時の建物はことごとく失われた。中世には延文3年(1358年)、貞治6年(1367年)、応安6年(1373年)、康暦2年(1380年)、文安4年(1447年)、応仁元年(1467年)と、6回も火災に遭っている。応仁の乱による焼失・再建後、しばらくは安泰であったが、江戸時代の文化12年(1815年)にも焼失、さらに幕末の元治元年(1864年)、禁門の変(蛤御門の変)で大打撃を受け、現存伽藍の大部分は明治時代後半以降のものである。なお、方丈の西側にある夢窓疎石作の庭園(特別名勝・史跡)にわずかに当初の面影がうかがえる。また、2500点余りの天龍寺文書と呼ばれる文書群を所蔵しているが、中世のものは度々の火災で原本を失ったものが多く(案文・重書案などの副本の形で残されている)、後に関係の深い臨川寺の文書が天龍寺に多数移されたこともあって、「一般に天龍寺文書といわれるが、現実には臨川寺文書が多数を占める」とまで言われている。これに対して近世のものは寺の日記である「年中記録」などの貴重な文書が伝えられている。ともに、中世・近世の京都寺院の状況を知る上では貴重な史料である。方丈の北側には、宮内庁管理の亀山天皇陵と後嵯峨天皇陵がある。

○伽藍
境内東端に勅使門、中門があり、参道は西へ伸びている。これは、通常の禅宗寺院が原則として南を正面とし、南北に主要建物を並べるのとは異なっている。参道両側に塔頭(山内寺院)が並び、正面に法堂、その奥に大方丈、小方丈、庫裏、僧堂、多宝殿などがあるが、いずれも近代の再建である。
勅使門-四脚門。寺内最古の建物である。
法堂-禅寺の中心堂宇としては珍しい、寄棟造単層の建物で、1900年(明治33年)の再建。本尊釈迦三尊像を安置する。天井画の雲龍図は明治時代、鈴木松年によって描かれたが、傷みがひどかったため、1997年(平成9年)加山又造により八方にらみの龍の雲龍図が描かれた。
大方丈-1899年(明治32年)の建築。
小方丈-1924年(大正13年)の建築。
多宝殿-1934年(昭和9年)の建築。近代の建築だが、鎌倉時代頃の建築様式を用いている。後醍醐天皇の木像を安置する。

○文化財
・特別名勝・史跡
庭園 - 特別名勝及び史跡の指定範囲は、前庭と方丈裏庭。前庭は、勅使門から放生池を経て法堂に至る境内中心部を指す。方丈裏庭は曹源池(そうげんち)を中心とした池泉回遊式庭園で、夢窓疎石の作庭。
・重要文化財
絹本著色夢窓国師像 徳済の賛あり
絹本著色夢窓国師像 暦応庚辰仲秋の自賛あり
絹本著色夢窓国師像 木訥叟(夢窓)自題あり
絹本著色観世音菩薩像 
絹本著色清涼法眼禅師像・雲門大師像
木造釈迦如来坐像
遮那院御領絵図
往古諸郷館地之絵図 
応永鈞命絵図 
東陵永?墨蹟(「?」は「王扁」に「與」) 
北畠親房消息
臨川寺領大井郷界畔絵図

○映画と天龍寺
天龍寺は明治の活動大写真の時代から、京都の映画人に愛され、映画のロケ地に数多く使われた。現在では映画のロケは断っているが、撮影所や嵐山電車からの近さ、武家屋敷のようなたたずまいや、近くに渡月橋や峡谷もあり、変化の多い風景から大正時代には毎日一、二組がロケをするほどだった。明治45年に日活が創立されると、1月、2月には必ず大雪になるというので、毎年のように尾上松之助主演の「忠臣蔵」雪中討入りの場面がここで撮影された。戦時中は出征も戦没もすべて神社優先となり、寺院は経済的に苦しくなり、稲垣浩監督は天龍寺から「たまにはロケをしてくださいよ」と頼まれたことがあったという。戦後、『柳生武芸帖』(稲垣浩監督)での三船敏郎と鶴田浩二の大チャンバラや、『大岡政談 完結篇』(伊藤大輔監督)での、大河内傳次郎の丹下左膳が死の決心をする悲愴な場面はここで撮られている。

○所在地・アクセス
京都府京都市右京区嵯峨天竜寺芒ノ馬場町68 
京都市営バス嵐山天龍寺前下車すぐ、京福電鉄嵐山駅下車徒歩1分

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2013-04-29(Mon)

大覚寺

大覚寺は、京都市右京区嵯峨にある、真言宗大覚寺派大本山の寺院。山号を嵯峨山と称する。本尊は不動明王を中心とする五大明王、開基は嵯峨天皇である。嵯峨天皇の離宮を寺に改めた皇室ゆかりの寺院である。また、後宇多法皇がここで院政を行うなど、日本の政治史に深い関わりをもつ寺院である。また、嵯峨天皇に始まるという華道嵯峨御流を今に伝える寺でもある。時代劇の撮影所が多い太秦の近くということもあり、寺の境内(大沢池や明智門など)は(特に時代劇の)映画やテレビなどの撮影によく使われている。
○歴史
嵯峨野の北東に位置するこの地には、平安時代初期に在位した嵯峨天皇が離宮を営んでいた。嵯峨天皇の信任を得ていた空海が、離宮内に五大明王を安置する堂を建て、修法を行ったのが起源とされる。嵯峨天皇が崩御してから30数年後の貞観18年(876年)、皇女の正子内親王(淳和天皇皇后)が離宮を寺に改めたのが大覚寺である。淳和天皇の皇子(嵯峨天皇には孫にあたる)恒貞親王(恒寂法親王、仁明天皇の廃太子)を開山(初代住職)とした。鎌倉時代になると、亀山法皇や後宇多法皇が入寺し、ここで院政を行ったため嵯峨御所(さが ごしょ)とも呼ばれた。なかでも、後宇多法皇は伽藍の整備に力を尽くしたため、「中興の祖」と称されている。亀山法皇・後宇多法皇の系統は当寺にちなんで「大覚寺統」と呼ばれ、後深草天皇の系統の「持明院統」と交代で帝位についた(両統迭立)。この両系統が対立したことが、後の南北朝分裂につながったことはよく知られる。元中9年(1392年)、南北朝の和解が成立し、南朝最後の天皇である後亀山天皇から北朝の後小松天皇に「三種の神器」が引き継がれたのも、ここ大覚寺においてであった。このように、皇室ゆかりの寺院であり、代々法親王が住職となった門跡寺院であるため、現在でも御所風の雰囲気がただよっている。御所跡地が国の史跡に指定されている。

○伽藍
皇室ゆかりの寺院である大覚寺には、宮廷風の建築や皇室ゆかりの建物を移築したものが多い。伽藍の中軸線上には南から勅使門(唐門)、御影堂、心経殿が建ち、御影堂の東に五大堂、西に宸殿、宸殿の北側に正寝殿が建つ。これらの建物の間は屋根付きの廊下で結ばれている。伽藍の中心部に位置しているのは、本堂にあたる五大堂ではなく、嵯峨天皇ほかの歴代天皇が書写した般若心経を収める心経殿である点が注目される。
宸殿(重要文化財)‐東福門院(後水尾天皇中宮)の旧殿を移築したものと伝える。蔀戸(しとみど)を用いた寝殿造風の建物で、屋根は入母屋造、檜皮葺きとし、周囲に広縁をめぐらす。「宸殿」は門跡寺院に特有の建物名で、「宸」は「皇帝」の意である。内部は大きく4室に分かれ、中でも南側の「牡丹の間」の牡丹図と北側の「紅梅の間」の紅梅図の襖絵(ともに狩野山楽筆)は名高い(襖絵のオリジナルは収蔵庫に収められ、現在ここにある襖絵は複製である)。前庭には一面に白砂が敷き詰められ、右近の橘と左近の梅(左近の「桜」ではない)がある。
御影堂‐入母屋造、桟瓦葺き。伽藍の中心部に位置し、北側に建つ心経殿の拝殿のような役割をしている。この建物は大正天皇の即位式に使用された饗応殿を下賜され、大正14年(1925年)、後宇多法皇600回忌を機に大覚寺へ移築されたものである。堂内の中心部は北側に建つ心経殿の拝所となり、その左右に大覚寺にゆかりの深い嵯峨天皇、弘法大師(空海)、後宇多法皇、恒寂法親王の像を安置する。
五大堂‐大覚寺の本堂。境内東側に位置する。天明年間(1781-1789年)の建立。当初は伽藍の中心部(御影堂前の現在、石舞台がある位置)にあったが、大正14年(1925年)、御影堂が移築された際に現在の位置に移動した。元来この堂の本尊であった鎌倉時代作の五大明王像は収蔵庫に移され、現在は松久朋琳・松久宗琳が昭和50年(1975年)に完成した五大明王像を本尊として安置している。堂は写経道場として用いられており、堂の東側の縁からは大沢池を望むことができる。
心経殿‐御影堂の北に建つ。大正14年(1925年)建立の鉄筋コンクリート造の小規模な八角堂で、壁面は校倉造風である。内部には嵯峨天皇、後光厳天皇、後花園天皇、後奈良天皇、正親町天皇、光格天皇の直筆の般若心経を収蔵し、薬師如来像を安置する。内部は非公開で、開扉は60年に一度とされている。建物は国の登録有形文化財に登録されている。
正寝殿‐重要文化財指定名称は「客殿」。桃山時代建立の書院造建築で、内部は大小12の部屋に分かれる。「上段の間」(御冠の間)には玉座があり、後宇多院が院政を行った部屋を再現したものである。障壁画は狩野山楽および渡辺始興の筆。
霊明殿‐総理大臣を務めた斎藤実が昭和3年(1928年)、東京の沼袋(現・中野区沼袋)に建てた日仏寺の本堂だったもの。昭和33年(1958年)、当時大覚寺門跡であった草繋全宜(くさなぎぜんぎ)が移築した。縁板まで含め総朱塗りとした建物で、阿弥陀如来を本尊とする。
貴賓館‐秩父宮の御殿として大正12年(1923年)、東宮仮御所の霞ヶ関離宮(現・国会前庭)に建立されたもの。昭和46年(1971年)、大覚寺に下賜された。非公開。
庭湖館‐江戸時代中期、大沢池畔に建てられた休憩所を明治元年(1868年)に移築したもの。非公開。
このほか、伽藍東側の大沢池周辺には護摩堂、大日堂、聖天堂、五社明神などの小堂や、昭和42年(1967年)建立の心経宝塔(多宝塔)などが建つ。

○大沢池と名古曽の滝
大沢池は中国の洞庭湖を模して嵯峨天皇が築造したものといわれ、当時の唐風文化の面影を今に残す園地は池の北方約100メートルにある「名古曽の滝」とともに1923(大正12年)に国の文化財として名勝に指定されている。嵯峨院の園池を引き継ぐものと推定されているが、これは南東にゆるく傾斜する地形を利用して南から東にかけて長い堤を築することで北西側からの流れをせき止めて築造された人工の池として知られる。この池はまた周辺水田の灌漑用水として重要な役割を果たしてきたことが知られている。平安時代前期の名残をとどめ、日本最古の庭池とされている。昭和56年から始まった発掘調査によって、この2石は当初の位置にあるものの、その他の石は後代の手が加わっていると推定されている。また滝の南方には素堀に近い蛇行溝が開削されて大沢池へ注いでいたことが調査でわかっていて、これは自然の流れを模して造られた庭園の遣水施設で、嵯峨天皇が譲位を契機として冷然院からこの新院へと遷御した時期に最大幅約12メートル、深さ約1メートル規模拡張され、拡張と同時に流末に水位調節のために石組み溝が新たに設けられ、これによって流路全体がせき止められて池状のたまりとなっていたこと、このことから改修時期には供給される水量が減少し、池の注ぎ口に設けられた溝もやがて埋没し、流水方向に直交して低い土手が築かれてここに帯状に玉石敷が造られると同時に施設の西側に景石が添えられ、この施設によって流路は大きくせき止められて広大なたまりを形成しオーバーフローして大沢池に注ぎ込むこととなっていたものと考えられている。

○文化財
・国宝
後宇多天皇宸翰御手印遺告 - 「宸翰」は天皇自筆の意。後宇多天皇(法皇)が、大覚寺の興隆を願って書きおいた遺言の自筆草稿で、紙面に天皇の手形が押されている。
後宇多天皇宸翰弘法大師伝 - 真言密教に帰依した後宇多天皇が、自ら正和4年(1315年)に書いた弘法大師伝の自筆本。
・重要文化財
正寝殿(客殿)
宸殿
絹本著色五大虚空蔵像
絹本著色後宇多天皇像
紙本著色後宇多天皇像
紙本著色後宇多天皇像
大覚寺障壁画 116面(附122面)
木造不動明王坐像・軍荼利明王立像・大威徳明王像(附:一夢信孝関係資料41点)
木造五大明王像 5躯
太刀 銘□忠 
後宇多天皇宸翰悉曇印信口決2帖・悉曇印信文5帖
後宇多天皇宸翰奥砂子平口決
後宇多天皇宸翰灌頂印明 6巻
後宇多天皇宸翰灌頂私注 上 正和三年奥書 
後宇多天皇宸翰護摩口決
後宇多天皇宸翰伝法灌頂作法
後宇多天皇宸翰伝法灌頂初後夜供養法次第 2帖
後宇多天皇宸翰宝珠抄
後宇多天皇宸翰高雄曼荼羅御修覆記 延慶二年正月十九日とあり 
後宇多天皇宸翰伝流抄目録並禅助消息3通 1巻
金剛界伝法潅頂作法 
袈裟印 禅助筆 
孔雀経音義 上中下 3帖 
秘鈔(128巻)23結
後深草天皇宸翰消息(正安二年三月六日花押)
花園天皇宸翰消息 七月廿五日とあり

○史跡
御所跡

○名勝
大沢池附名古曽滝跡

○アクセス
京都市営バス・京都バス大覚寺下車すぐ
京都府京都市右京区嵯峨大沢町4

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2013-04-29(Mon)

化野念仏寺

化野念仏寺は、京都市右京区の嵯峨野にある浄土宗の寺。山号は華西山。化野は東山の鳥辺野(とりべの)、洛北の蓮台野と並ぶ平安時代以来の墓地であり、風葬の地として知られる。
○歴史
伝承によれば弘仁2年(811年)、空海が五智山如来寺を建立し、野ざらしになっていた遺骸を埋葬したのに始まるとされ、後に法然が念仏道場を開き、念仏寺となったという。本尊は阿弥陀如来像(寺伝に湛慶作というが実際の作者は不明)、本堂は江戸時代の正徳2年(1712年)に寂道により再建されたもの。境内の約8000体という夥しい数の石仏・石塔は、明治36年(1903年)頃に、化野に散在していた多くの無縁仏を掘り出して集めたものである。境内には水子地蔵もあり、地蔵菩薩の縁日には水子供養が行われている。
○行事
千灯供養 - 地蔵盆の時期、8月23日、24日に行なわれる。
水子供養 - 毎月24日に行われる。
○交通アクセス
「清滝行」京都バスを「鳥居本」バス停で下車、徒歩5分
京都府京都市右京区嵯峨鳥居本化野町17

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2013-04-29(Mon)

あいあいパーク

ガーデニンググッズ販売,輸入雑貨,グリーンショップ・カフェ,レストラン,カルチャー教室など。
所在地:〒665-0881兵庫県宝塚市山本東2-2-1
TEL:0797-82-3570
営業期間営業 : 10:00~17:30
お問合わせ:0797-82-3570

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2013-04-29(Mon)

打上古墳群

打上の周辺には、古くから多くの古墳があったといわれています。江戸時代の『河内名所図会(観光ガイドブックのようなもの)』には、「八十塚同村にあり由縁不詳、八十は其数の多きをいふ」と紹介されています。打上には、高塚・ほり塚・ぬめり塚・から塚などという「塚」の名前のついた地名が多くみられます。これらのことから、かつて打上には多くの塚(古墳)が存在していたことがうかがえます。しかし、ほとんどの古墳は、耕地などをつくるために消滅してしまったようです。明和小学校前バス停横にある多くの花崗岩の巨石は、かつてこの付近に散在していた古墳に使われていた石材を集めたものと考えられます。
寝屋川市打上

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2013-04-29(Mon)

弘法井戸(打上)

打上地区の東高野街道の道端に、土地の人々が「弘法井戸」とよび親しんでいる井戸があります。そばに「弘法観念水」と刻んだ小さな石柱が建てられています。水への感謝と弘法信仰が結びついたものでしょう。この井戸は、いくら日照りが続いても涸れることはなかったと語り継がれています。高野山へ通じるこの街道は、古くから弘法大師を信仰する人々の通行が多く、街道そばのこの井戸は、行き交う人々の渇きをいやしたことでしょう
寝屋川市打上

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2013-04-28(Sun)

葵祭2013

京都三大祭りの一つ「葵祭」は、賀茂御祖神社(下鴨神社)と賀茂別雷神社(上賀茂神社)の例祭です。平安貴族の衣装を纏った全長700mの行列が京都の町を巡行します。王朝行列は、総勢500余人、馬36頭、牛4頭、牛車2台、輿1台からなり、京都御所を出発し、下鴨神社を経て上賀茂神社へ向かいます。また、上、下両社それぞれの社頭で、勅使が御祭文を奏上し、御幣物を奉納する「社頭の儀」が行われ、雅な雰囲気の中で、神馬の引き回しや、舞人による「あずまあそび」の舞が披露されます。
所在地:〒603-8047京都府京都市北区、左京区
交通アクセス:上賀茂神社まで/JR「京都駅」から地下鉄烏丸線「北山駅」~市バス「上賀茂神社前」下車、またはJR「京都駅」から4系統のバス約40分「上賀茂御薗橋」~徒歩5分、下鴨神社まで/京阪「出町柳駅」~徒歩10分、またはJR「京都駅」から市バス「下鴨神社前」すぐ、またはJR「京都駅」から地下鉄「北大路駅」~市バス約10分「下鴨神社前」すぐ
開催期間:2013年5月15日






2013-04-28(Sun)

土塔

土塔は、大阪府堺市中区土塔町にある、大野寺に築かれた土製の塔。大野寺土塔(おおのでらどとう)とも呼ばれている。国の史跡に指定されている。
○概要
『行基年譜』(鎌倉時代に成立した行基の伝記)によれば、727年(神亀4年)行基によって大野寺が創建され、その際に土塔も築かれたとされている。大野寺は行基建立四十九院の一に数えられている。周辺からは土塔築造当時に葺かれていたとみられる文字瓦が多数出土し、瓦の寄進者とみられる人名が箆で刻まれている。文字瓦のうちに神亀4年銘を有するものがあり、土塔は行基在世中から遅くても8世紀後半に築造されたと考えられている。大野寺は室町時代に一時中絶したが、江戸時代になって土塔の前に再興された。遺跡は、一辺53.1メートル(180尺)高さ9.0メートル(27尺)に及ぶ、階段ピラミッドのような形状で、東西南北の正方位に位置し、13重の塔であったと推定されている。形態に類似性が認められる日本国内の遺址として、奈良市高畑町の「頭塔」がある。堺市では、土塔とその周辺を公園として整備するための工事と発掘調査を実施、その成果を元に復元工事が実施され、2009年(平成21年)に完成している。

○所在地
大阪府堺市中区土塔町2143-1

2013-04-27(Sat)

堺式手織緞通 (堺式手織緞通技術保存協会)

「緞通」というのは、いわゆるじゅうたんのこと。堺緞通は、1831年(天保2年)に、藤本庄左衛門が「九州鍋島緞通」や「中国製緞通」をまねて売り出したのが、その始まりと言われている。最初は質も悪かったが、改良に改良を重ね、広く外国にも輸出されるようになった。しかし時代が進むにつれて、新しい織物の開発や機械化が進み、次第に堺緞通は衰えていった。この堺緞通というのは、織機に一重の経糸を掛け、手にもった色糸を一回一回織り込んでいくもの。完全な手作業の世界。慣れている人でも、1時間で50mm程度しか進まないという。根気も体力もいる大変な作業なのだ。1973年(昭和48年)に大阪府の指定文化財となったが、ただ1人の技能保持者が亡くなり存続の危機に。そこで堺式手織緞通技術保存協会が週に1度、主婦や若者に手織緞通の講習会を始めた。堺緞通の技術は、機械では出せない微妙な色合いや精密な絵柄が可能で、実にすばらしい芸術作品が出来上がる。講習会は、毎週月曜日の13:00~16:00まで行われ、この間なら堺緞通を織っているところを見学することが可能だ。ただし、スペースが限られているので、見学をする前に予約を入れて確認をとってください。

所在地:大阪府堺市中区東山693-5
TEL:072-235-5396
営業期間: 13:00~16:00
休業 : 要問合せ

2013-04-27(Sat)

顕本寺

顕本寺は、大阪府堺市堺区にある法華宗本門流の寺で常住山顕本寺をいう。開山は日浄とされる。
○歴史
宝徳2年(1450年)、堺の木屋と餝屋と称する者たちの自宅を法華堂としたのが始まりとされる。当初の寺は開口神社に近い甲斐町山ノロにあった。本門流を起こした日隆の流れにあって南西国末頭と呼ばれる寺格を得ていた。戦国時代に入ると、室町幕府第12代将軍足利義晴を擁する管領細川高国に対抗して、大永7年(1527年)に細川晴元と三好元長が阿波から足利義維を堺につれてきた際にはこの寺を本拠地とした(義維は堺公方または堺大樹と呼ばれた)。しかし、高国を討ち取った後晴元は元長と袂を分かち、享禄5年(1532年)に一向一揆を差し向けて堺の元長を攻め、敗走した元長はこの寺で自害。後ろ盾のなくなった足利義維は阿波へ去った。元長の殉難地ということもあり、その後も三好氏一族との結びつきは続き、元長の息子三好長慶、義賢らの軍勢が寄宿する免許を得たり、元長の二十五回忌の法要が行われた。天文5年(1536年)の天文法華の乱で本門流の大本山本能寺が焼けた際には、本山がこの寺に逃れ、天文16年(1547年)から天文17年(1548年)ごろに京都へ戻るまでの間、顕本寺にあった。慶長20年(1615年)の大坂夏の陣の兵火で寺は焼失。再建された際に、現在の場所に移った。安土桃山時代、この寺の坊の一つ高三坊の高三隆達が小唄「隆達節」を創出したことでも知られる。

○焼失前住所
堺市甲斐町山ノ口(旧住所)

○寺へのアクセス
阪堺電気軌道堺線宿院駅
徒歩約3分
阪神高速堺線堺出入口
境内に参拝用駐車場有り

○所在地
大阪府堺市堺区宿院町東4丁1-30

2013-04-27(Sat)

法雲寺

法雲寺(法雲禅寺とも)は、大阪府堺市美原区今井にある黄檗宗の仏教寺院。山号は大宝山。本尊は釈迦如来。河内西国霊場第6番札所。

○歴史
前身は、空海開基の神福山長安寺という名の真言宗の寺院であったが、元和6年(1620年)に、狭山池の堤防が決壊し、西除川の洪水により、寺地及び寺は流出した。明暦年間(1655年~1657年)頃に、曹洞宗の僧・宗月が、長安寺の寺地と寺を今井村中から譲り受け、寛文11年(1671年)に地中より観音像を掘り出し、草庵に安置して再興した。翌、寛文12年(1672年)に、宗月は宇治・黄檗山万福寺の開祖の隠元隆琦の弟子である慧極道明(1632年~1721年)に寺地と寺を譲り、寛文13年(1673年)に慧極は幕府の許可を受け、寺号を大宝山法雲寺と改め、黄檗宗の寺となった。慧極は、延宝5年(1677年)に禅堂を、延宝8年(1680年)に鐘楼を建立し、その後、30年をかけて大門、大方丈、開山堂、斎堂、天王殿、長生閣などの二十数棟を整備した。元禄10年(1697年)に、狭山藩(後北条氏の末裔が藩主)の5代藩主北条氏朝は、慧極と師弟の約を結び、以後、北条家の菩提所となった。墓地の中央には、第11代藩主北条氏燕の墓がある。

○建物
・山門
「大寶山」の扁額がある。
・天王殿
黄檗宗独特の建物であり、宇治の万福寺と当寺だけに現存する。内部には、弥勒菩薩像と四天王像がある。
・本堂
本尊に釈迦如来、脇侍に薬師如来・阿弥陀如来があり、背後に3333体の仏が並んでいる。
・開山堂
慧極道明禅師坐像があり、遺骨が石室内に納められている。「大機」の扁額がある。
・耀先殿
北条早雲、狭山藩初代藩主の北条氏盛及び第5代藩主北条氏朝が祀られている。

○所在地
大阪府堺市美原区今井192

2013-04-26(Fri)

いけだ薪能2013

新緑がさわやかな夕暮れのひととき、幽玄の世界へ誘う「いけだ薪能」が池田城跡公園で開催されます。池田城を背景にかがり火で照らし出された舞台で、謡や鼓の音色が夜空に響くなか、源氏物語の王朝美を幽玄の世界で表現した文学的情緒あふれる半能「源氏供養」が披露されます。そのほか、窮地に立たされた盗人とその家の主人のやりとりが滑稽な狂言「盆山」や、天界から地獄までを映し出す(池の精霊のような存在である)鬼神の勇壮な舞姿が見どころの能楽「野守」が上演されます。※会場は夜になると肌寒くなりますので、防寒着のご持参をおすすめします。駐車場がありませんので、近隣の駐車場をご利用ください。

開催場所:池田城跡公園
所在地:〒563-0052大阪府池田市城山町3-46
交通アクセス:阪急「池田駅」から徒歩12分
開催期間:2013年5月18日開場/16:30、開演/17:00※雨天の場合:池田市民文化会館アゼリアホール開場/17:30、開演/18:00に変更 .イベント料金大人3000円、学生1000円、中小生500円(前売り自由席 ※未就学児の入場はご遠慮ください)




2013-04-26(Fri)

卯之葉神事2013

住吉大社の創立記念日を祝う式典が13時から行われます。卯の葉を使った玉串を捧げ、祭典が行われたのち、石舞台にて舞楽が奉納されます。また、境内の卯の花苑は、卯之葉神事が行われる5月の初旬から一般公開され、13品種500株の、白、淡紅、紫紅色の美しい花を楽しめます。この優雅な舞楽と卯の花を見ようと、毎年たくさんの人が訪れます。

所在地:〒558-0045大阪府大阪市住吉区住吉2-9-89
交通アクセス阪堺電気軌道阪堺線「住吉駅」または「住吉鳥居前駅」からすぐ、または南海本線「住吉大社駅」から徒歩3分
開催期間2013年5月1日祭典13:00(拝観に関して規制あり)、舞楽14:00(自由に見学できます)
イベント料金境内散策自由




2013-04-26(Fri)

引接寺

引接寺は、大阪府堺市堺区にあった時宗四条派の中本寺である。山号は勅定山、「引摂寺」とも記す。語源は「来迎引接」の略。

○歴史
貞和3年(1347年)の建立と伝える。堺における古株の豪商である三宅十五郎が父親の病気回復を住吉社に祈願したところ、夢告によって海より無量寿仏(阿弥陀如来の異称)をえて見事に願いが叶ったため、報恩のために七堂伽藍を建立したという。当初の寺地は堺区宿院町西附近であった。のち現在の堺市立少林寺小学校の位置に移転している。京都で威勢を誇った時宗四条派・四条道場金蓮寺の有力末寺であり、尾張国熱田円福寺、近江国木之本浄信寺、摂津国尼崎善通寺とともに、四条派の四箇本寺であった。当寺をへて金蓮寺の住持=四条上人浄阿になる者も少なくなかった。当時は「堺四条道場」ともよばれた。金蓮寺の末寺で金蓮寺と同じく「四条道場」とよばれたのは当寺だけである。中世都市堺は北半分が摂津国堺北庄、南半分が和泉国堺南庄から成り立っていた。当寺は堺南庄に属し、堺北庄には同じく四条道場末の金光寺があった。妙国寺に隣接していた金光寺も廃絶している。建立に際しては住吉社の社務職津守氏の支援があったと伝えられ、住吉社の別宮とされた開口神社にほど近いため、開口神社の神宮寺に準ずる立場にあった。現在も史料のいくつかは同社に遺されている。明治維新になると廃仏毀釈の影響ですっかり寺勢も衰え、明治6年(1873年)に廃寺となった。当寺にあった松風社が開口神社境内社として還座・転用されている。寺宝などの大部分は堺区中之町東にある浄土宗西山禅林寺派正法寺が引き継いだが、1945年の大空襲ですべて失われている。同寺境内に移築された碑のみが残る。また、少林寺小学校の一角に案内板が建っている。近世に設定された日本西方四十八願所の四十二番。

○住所
大阪府堺市堺区少林寺町東4丁1番1号

○交通
南海高野線・堺東駅より徒歩15分、または阪堺電気軌道・寺地町駅より徒歩5分

2013-04-26(Fri)

長和寺

長和寺はかつて河内国八上郡小寺村(現在の堺市美原区小寺、堺市東区八下町あたり)にあったとされる仏教寺院。現在の平松寺がある場所とされている。

○歴史・概要
平安時代中期の長和年間(1011年~1015年)に三条天皇の詔を得て創建された勅願寺で、年号の長和に因んで長和寺と名付けられ、奈良の東大寺や薬師寺等と同類に取り扱われた由緒ある巨刹であった。  長和寺は河内国八上郡小寺村字長和寺の5,874坪の地に建てられたものと考えられており、この地は日本最古の国道といわれる竹の内街道の側にある。竹の内街道は難波津から堺、奈良、飛鳥間の重要な政治、経済、外交のルートとして利用され、平安時代から鎌倉時代の要人達が行き来し、長和寺にも参られたものと思われる。明徳2年(1391年)、山名氏清、山名満幸らが起こした明徳の乱で焼失したと伝えられている。長和寺は当地の伝承と、江戸時代(前期)の延宝7年(1679年)の「河内国八上郡小寺村検地水帳」に「字長和寺」の字名が計30筆(合計面積1町9反5畝24歩、5,874坪、19,418㎡)書かれていることや、江戸時代(後期)の天保3年(1832年)の小寺村辰年免定に「字長和寺」が記されているから、長和寺は小寺村に存在したものと考えられている。

○創建地
長和寺が小寺村の何処に在ったのかについて 小寺に「長和寺」の字名が現在残っていないし、延宝の小寺村検地水帳と対照できる絵図も残っていないため確定できないが、現在の美原区小寺の東南部にある平松寺境内に 「長和寺大宝塔 願主実盛 大永四年(1524年)甲申八月吉日」の銘をもつ五輪塔の地輪が残存することや、同寺付近に平安時代後期の瓦が出土する地点があることなどから、現在の平松寺(現堺市美原区小寺)が長和寺の故地である可能性があると考えられている(「大阪府の地名」、「美原町史」)。しかし「長和寺大宝塔 願主実盛 大永四年 甲申八月吉日」の銘のある五輪塔の地輪が平松寺の境内に残存することから 長和寺焼失133年後の戦国時代、室町時代後期の1524年に供養塔として五輪塔が建てられた。しかし長和寺としてどのような寺塔が建てられたのか、長和寺再建に関する資料は見あたらない。

2013-04-26(Fri)

今日グランフロント大阪開業

今日グランフロント大阪開業。

2013-04-26(Fri)

明日からゴールデンウィーク

明日からゴールデンウィークですね。写真の整理が忙しくてお出かけはほとんどしません。
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