2010-08-27(Fri)
太閤下水
太閤下水は、日本最古の現役の下水道といわれている。1583年(天正11年)から始まった豊臣秀吉の大坂城建設に伴うまちづくりでは、内町や船場地区に現在の大阪の基礎となる町が形成された。
このまちづくりでは、道路の整備と同時に、町屋から排出される下水を排除するために下水溝が建設されたが、道路と下水道を備えた先駆的なまちづくりのアイディアはわが国の都市計画の歴史において画期的なものとして評価されている。
1598年(慶長3年)に整備された船場地区では、大坂城に向かう東西路を軸に、碁盤の目状に整然と区画され、その道路に面して間口を持つ建物の裏側の建物と建物が背中合わせになっているところを割るように造られたことから「背割下水」と呼ばれ、 太閤秀吉にちなんで「太閤下水」とも呼ばれている。 太閤(背割)下水は開渠で作られ、通常幅1尺(約30Cm)から4尺(約1.2m)、大きなものは1間(1.8m)から2間(3.6m)に及ぶもので、工法は初期には素掘りであったが、のちには石垣が施されている。
江戸時代を通じて、拡張・整備され、明治の新政権に引き継がれた。大阪市制が発足した1889年(明治22年)には市内の下水講の総延長は約350Kmに及んでいたという。この太閤(背割)下水は現在でも中央区、西区などで約20Km使用されているが、2006年(平成18年)には、その内将来にわたって保存可能な約7Kmを「大阪市指定史跡」に指定されている。
所在地:大阪市中央区農人橋1丁目
最寄駅:地下鉄谷町線[谷町4丁目」下車、②番出口を南へ、最初の辻を西へ、南大江小学校西側





このまちづくりでは、道路の整備と同時に、町屋から排出される下水を排除するために下水溝が建設されたが、道路と下水道を備えた先駆的なまちづくりのアイディアはわが国の都市計画の歴史において画期的なものとして評価されている。
1598年(慶長3年)に整備された船場地区では、大坂城に向かう東西路を軸に、碁盤の目状に整然と区画され、その道路に面して間口を持つ建物の裏側の建物と建物が背中合わせになっているところを割るように造られたことから「背割下水」と呼ばれ、 太閤秀吉にちなんで「太閤下水」とも呼ばれている。 太閤(背割)下水は開渠で作られ、通常幅1尺(約30Cm)から4尺(約1.2m)、大きなものは1間(1.8m)から2間(3.6m)に及ぶもので、工法は初期には素掘りであったが、のちには石垣が施されている。
江戸時代を通じて、拡張・整備され、明治の新政権に引き継がれた。大阪市制が発足した1889年(明治22年)には市内の下水講の総延長は約350Kmに及んでいたという。この太閤(背割)下水は現在でも中央区、西区などで約20Km使用されているが、2006年(平成18年)には、その内将来にわたって保存可能な約7Kmを「大阪市指定史跡」に指定されている。
所在地:大阪市中央区農人橋1丁目
最寄駅:地下鉄谷町線[谷町4丁目」下車、②番出口を南へ、最初の辻を西へ、南大江小学校西側





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