2010-03-29(Mon)

白井河原の戦い

白井河原の戦いは元亀2年(1571年)8月28日に白井河原一帯で行われた戦い。池田氏の一家臣であった荒木村重が、摂津国内で勢力を拡大するために起こした戦いと考えられている。この戦いに勝利した荒木村重は、織田信長からも一目おかれる存在となる。
○開戦までの経緯
織田信長が上洛し摂津国に入国し、松永久秀が芥川山城で織田軍に与すると、松永久秀の家臣であった高山友照もそれに従った。高山友照は永禄11年(1568年)に摂津国三守護であった和田惟政より芥川山城を預けられ、国人から戦国大名に飛躍していったものと考えられている。戦国時代初期の永正の錯乱以降、摂津国は常に戦乱の地であり、織田信長の上洛以降は徐々に平定されていくとはいえ、この時はまだ一つにまとまっていなかった。永禄11年(1568年)8月の猪名寺の戦いは茨木重朝、伊丹親興連合軍と池田勝正軍の戦いであったが、その後の情勢は、茨木重朝を支援する和田惟政と、池田城から池田勝正を追いだした荒木村重と中川清秀の連合との対立へ変化し、元亀2年(1571年)8月、白井河原を挟んで両軍が対峙することとなった。この時、茨木重朝、和田惟政連合軍は約500騎で耳原古墳の西側の糠塚に陣どり、一方の荒木村重、中川清秀連合軍は郡山の北側の馬塚に約2500騎で陣取った。
○戦いの情況
未だ陣形が整わない茨木重朝、和田惟政連合軍から、郡山城城主郡正信が単身で、荒木村重、中川清秀連合軍の陣取る馬塚に出向き、「わが主人である茨木重朝、和田惟政は両名ともにわかに将軍の呼び出しで京にいっている。できれば大将が帰ってから戦端をひらきたい」と時間稼ぎをしようとした。和田惟政の子和田惟長の軍が後続し、高槻城には高山友照らも居たため、それらの戦力を加えるための時間稼ぎの行動ではないかと推察されている。しかしこの計略は見破られ、逆に戦闘が開始された。『陰徳太平記』によると、この時、郡正信は、大将の和田惟政に「多勢に無勢、これでは勝目は無い。大将は強いだけが能ではなく、可をみて進み、不可を見て退き、無事をもって利をはかるのが名将なのである」と進言したようである。しかし和田惟政はこの申し出を全く聞き入れず、『日本史』によると、200騎を引き連れて馬塚に突撃したようである。また『陰徳太平記』によると、進言を聞き入れてもらえなかった郡正信は、「ここに至り仕方なし」とし名馬「金屋黒」にまたがり敵陣を縦横無尽に大暴れしたが、荒木村重、中川清秀連合軍の武将山脇源太夫に討ち取られてしまった。『中川史料集』によると、荒木村重は「和田惟政の首を取ったものには呉羽台をやる」という陣礼を出し、中川清秀が見事、和田惟政の首を取り、名をあげたようである。『茨木市史』によると、この呉羽台というのは現在の池田市旭丘2丁目周辺ではなかったかとされる。この呉羽台の石高は300石-500石程度で、この土地が恩賞として与えられたと考えられている。また茨木市南耳原2丁目周辺には、和田惟政の墓と伝わる五輪塔がある。一方、中川清秀と和田惟政が激突している中、茨木重朝軍は手薄となった荒木村重の本陣に突進してきた。しかし『日本史』によると、山陰に隠れていた2000兵が茨木重朝軍を囲い込み、鉄砲衆300兵を駆使して落としいれた。それでも茨木重朝軍は奮闘し、最後には茨木重朝自身が荒木村重に傷を負わせるほど肉薄したが、荒木村重自身に討ち取られたとされる。司令官を2人とも失った茨木重朝、和田惟政連合軍の残兵は「主を討たれてどうして生き残れようか」と玉砕覚悟で討って出てほぼ全滅した。この時の様子を『陰徳太平記』では「白井河原は名のみにして、唐紅の流となる」と記している。後続する和田惟長の軍は、敗戦の報を知るや高槻城に引き返し、高山友照、高山右近親子と城の守りを固めた。
○戦後の影響
いに乗る荒木村重、中川清秀連合軍は茨木城を攻め落とした。また郡山城等も手中に収めると、高槻城を攻囲した。松永久秀、松永久通の親子も攻囲軍に加わり、『日本史』によると、高槻城の城下町を2日2晩かけてすべて焼き払い破壊したとされる。ここで宣教師ルイス・フロイスが助け舟を出した。当時、高槻城周辺にはキリスト教会があり、和田氏、高山氏の庇護を受けていた。フロイスは事の成り行きを見守っていたが、ここに至って、ロレンソ了斎を織田信長のもとに派遣し戦況を報告させた。自分の知らないところで戦が行われていたことを知った織田信長は、『尋憲記』によると、同年9月9日に佐久間信盛を使者として高槻城から撤兵を勧告した。しかし両軍は動かず、『言継卿記』によると、重ねて同年9月24日に明智光秀が1000兵を率いて調停に乗り出す。ここに至ってさすがの荒木村重も撤兵を決意したものと考えられている。その後、荒木村重は伊丹城に、中川清秀は茨木城に入り、それぞれ威勢を誇る。一方、和田惟長は高槻城主となったが、高山友照、右近親子と対立し、天正元年(1573年)荒木村重と通じた高山親子によって高槻城から追放された。
○補説
どのような経緯を経て8月28日に白井河原で両軍が対峙したかは、未だ解明されていない。しかし、茨木重朝、和田惟政連合軍が十分な戦力を整えないうちに戦端を開くことを強いられたのに対して、荒木村重、中川清秀連合軍は伏兵まで準備していた点から、荒木村重、中川清秀連合軍の側から仕掛けた戦いではなかったかと考えられている。
この戦いを境に、織田信長によって任命された「摂津三守護」(池田勝正、伊丹親興、和田惟政)は勢力を失い、荒木村重、中川清秀、高山友照、右近親子など、以後摂津国で活躍する武将が表舞台に登場してくる。戦国時代から安土桃山時代初期への、世代交代の戦いとも考えられている。
新屋坐天照御魂神社には、中川清秀が和田惟政の首を取ったと伝わる短刀が奉納されている。それには「長サ一尺五寸、幅一寸三分、太刀作名、奉謝、中川瀬兵衛、作平増盛」と記載されている。
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2010-03-28(Sun)

ICOCA購入

ICOCAって知ってますか。JR西日本のICカード乗車券ですよ。阪急などの一部の私鉄やバスなどでも乗れるそうです。

一部のコンビ二でも使えるらしい。それを契約しました。

2010-03-25(Thu)

安威古墳群

茨木市安威から安威4丁目北側にサニータウンが接した丘陵上にかけて、阿為神社を中心に東西に並んだ20基の古墳が安威古墳群である。阿為神社については、天児屋根命を祀っているそうだ。古墳は、神社西側のグループが最も古く前期に属し、東側のグループに後期古墳の多いことが観察されているが、太平戦争直後、開墾によって墳形を損じたものも多い。また、近年の開発で、姿を消した古墳もある。サニータウン南側に北陵中学校があり、その南門に1号墳が保存されている。1号墳より約50m南西、道路を隔てた所に、前期の0号墳が保存されている。
○0号墳
古墳群の中で最も西側端に位置する前期古墳である。直径15mの円墳で、墳頂部に2基の(粘土郭)割竹形木棺の主体部がある。この0号墳には鏡だけでなく玉等の副葬品があったそうです。
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○1号墳
直径30mの前期古墳で、墳丘には、葺石・土器列があり、主体部(粘土郭)に割竹形木棺があった。墳丘上の一部が露出したときに、碧玉製の鍬形石が発見されている。副葬品としては、四神四獣鏡・石釧・勾玉・管玉・ナツメ玉・丸玉・小玉・鉄製工具などが出土している。
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所在地:大阪府茨木市安威4丁目

2010-03-25(Thu)

海北塚古墳

茨木市西福井1丁目にある府営住宅の南側にこの古墳はある。周囲綿はたに囲まれた竹やぶの中に位置する後期の古墳で、府史跡に指定されている。既に封土はなく西に開口した左片袖式の横穴式石室の下半分が残っている。天井等石は落下している所もあるが側壁上に残っている所もある。残存している石室の長さは約4.2m、幅2.2m、高さ3m、羨道の長さ5.7mで、6個の緑泥片岩で構成された箱式石棺がある。長さ1.8m、幅0.9mである。副葬品は小坩及び脚付長頸坩・高杯・金環・銅環・金銅製三輪玉・白銅質人物獣帯鏡・金銅製座金具・刀身片・銀製勾玉・銀製山梔玉が封土内より出土。轡・鉄地金銅製杏葉・金銅製雲珠・鞍金具・具等の馬具・金銅製環頭柄・長頚式鉄鏃・鉾・須恵器などが石室内から出土し、棺内よりガラス製小玉が出土している。これからの副葬品は現在東京国立博物館に保存されている。
この古墳は竜頭を表した金銅製環頭柄の出土や、石室内の石棺が結晶片岩(緑泥片岩)製で前期の紫金山古墳や将軍山古墳の石室構築に使用した和歌山県紀ノ川流域の同種の石材を使用されていることは注目されています。
所在地:大阪府茨木市西福井1丁目
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2010-03-25(Thu)

初田古墳群

サニータウン開発により発見された古墳群で、1号墳は横穴式古墳の側壁下部の石積みだけが残っていた。石室内には、磚(レンガ)が二重に敷かれ、その上に棺が安置されていたようであった。封土の端の石の並びから方形墳であたっと推定される。2号墳は、上部は破壊されていたが円墳らしく横穴式石室の側壁が残っていた。出土した釘などから3回以上埋葬されたと推定される。その中に漆を塗った棺片と銅製の釘が出土している。

所在地:大阪府茨木市山の手台4丁目
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2010-03-25(Thu)

紫金山古墳

茨木市室山1丁目に位置し、尾根上(茨木川と勝尾寺川にはさまれた、三島野一帯を見渡せる台地の上で、標高70m)にある4世紀(古墳時代前期)の東西方向の前方後円墳(前方後方墳の可能性もあり)である。大阪北警察病院の敷地内で、病院の水源地の工事中に石室が発見され、昭和22年4月~5月に大阪府が発掘調査を行った。現在まで報告書などの刊行は行われておらず詳しくはわからないが「大阪府の文化財」(昭和37年)によると、全長約102m、後円部径約76m、前方部幅40mを測り、墳丘には、葺石を施し、円筒は庭を並べていたという。後円部頂上平坦部には、外側のサイズ長さ9.6m、幅4.0m(内側のサイズ長さ7m、幅1.1m、高さ1.2m、南北方向)の竪穴式石室があって、石室内部には木棺が納められていたと推測されています。石室には7枚の花崗岩が天井石としてのせられていました。石室の壁は安山岩と片岩で気付かれています。石室の床は粘土が分厚くしかれ、その下にはさらに礫層が見られました。
石室内の副葬品は、方格規矩四獣鏡(中国の「新」の時代(紀元8年~23年)1面・勾玉・棗玉があり、棺外には三角縁神獣鏡や巨大な勾玉文鏡など11面の鏡以外に碧玉製の鍬形石・車輪石・直弧文を彫った珍しい貝輪(腕飾り)3個・縦矧板革綴式短甲が、石室の南と北との両端に置かれていた。その他「よろい」や刀・剣・鉄の鏃153個の他、鉄斧6個、鉄鎌6個、鉄鍬1個等の農工具や鉄銛・鉄鉈・鉄刀・石製紡鍾車や、権力を象徴する儀式用の宝器の一部と考えられる筒型銅製品が1個出土している。石室外にも鉄刀・鉄剣などが出土している。これらの副葬品から見て、強力な軍事力を保持し、また、多種類の工具や農具などから被葬者の支配した生産の多様さを知ることが出来るそうだ。この地域で漁撈も行われていたのではと言われているそうです。
所在地:茨木市室山1丁目
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2010-03-25(Thu)

将軍山古墳

昭和31年3月に甲円部が発掘調査されたが、その後、宅地造成のために破壊されることになり、昭和39年4月に再び全封土にわたって調査されて、全く姿を消した。この古墳はもと、山丘の頂上を利用した全長およそ107m、前方部端の幅44mの古墳時代前期(4世紀代)の前方後円墳であった。3段に気付かれた封土の周囲を葺石で覆い、円筒は庭を並べ、後円部中央には、この付近に産しない結晶片岩を用いて竪穴式石室を作っていた。石室には12枚の天井石がのせられ、U字型の粘土棺床が造られていた。この石室を移築したのが現在のこの石室である。実際の石材を用いて、元通り竪穴式石室を造ってあるので、その構造を知る上に参考になる物である。早く盗掘にあったので、副葬品は硬玉製勾玉、ガラス製小玉、銅鏃、鉄鏃、鉄剣のみであった。

所在地:大阪府茨木市東福井2丁目
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2010-03-25(Thu)

将軍塚古墳

平安中期の頃から、藤原鎌足候の墓所は、初め「摂津の安威にあったが、後に大和多武峰に改葬された」との説があり、それが江戸時代になってこの塚をあてるようになった。そのために鳥居(大織冠神社の鳥居のこと)を立て、石碑を作り石室内に祠をつくって崇拝し、毎年10月16日には、京都の駆除受けから支社が来て、反物二千匹を持参してお祭りをされてていた。考古学上からは、山頂を利用して造られた円墳で、南向きの横穴式石室を有する物である。石室は、羨道が玄室の片方によったいわゆる片袖式のもので、丸みのある花崗岩を積み上げている。玄室の長さは4.5m、幅1.71m、高さ2.4mで、5枚の天井石がのせられている。作られた時期は古墳時代後期(6世紀後半)の頃であるが、早くから開港されたので副葬品については何も分かっていない。

所在地:大阪府茨木市東福井2丁目
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2010-03-25(Thu)

南塚古墳

この古墳は、後期の前方後円墳で昭和29年に病院の増築工事の時に発見されたものである。過去の文献などによると全長約50m、後円部径約30mを測る。横穴式石室が後円部中央にあり、主軸と平行し西に開口した右片袖式で、石室の長さ6.4m、幅2.5m、高さ約2.5m、羨道幅1.2mであった。検出当時は、石室内部に組み合わせ式石棺が2つ置かれ、前棺は主軸と平行に置かれ、2枚の底石の上に1枚岩の長側石を、小口外側に短側石をそれぞれにたて、面取りをほどこした2枚の蓋石で構成されていた。内法の長さ約1m、幅0.8m、高さ0.6mで、内部に水銀朱が塗布されていたという。棺内よりより出土の副葬品には、ガラス玉・金銅製金具があり、石室内前まわりには、衝角付冑・須恵器・馬鈴・挂甲・杏葉・水晶三輪玉・鉄鏃・鉄矛・金銅製沓破片、革帯金具がある。また、奥棺は底石2枚・東側の石二枚・西側の石1枚に南北両短側石をはめこみ、2枚の蓋石で構成されていた。棺内北側に凝灰岩の石枕があり、棺身内面革面に酸化鉄の朱が塗布され、西側石にのみ縄掛突起が造り出されている。棺内の副葬品としては、ガラス小玉・水晶切子玉・ガラス丸玉・金銅製品破片がちり、棺外には、轡・杏葉・雲珠・鞍金具・輪鐙・革帯金具等の馬具・鉄斧・石突・鉄鏃・須恵器等が出土している。現在は埋葬施設の石棺が残っているが、昭和52年に移築され、第6病棟と第7病棟間の中庭の片隅に置かれている。しかし、風化が激しく1部がセメントによって固められており、検出当時とは異なっている。石棺の材質は、二神山系の石材を使っている。
所在地:大阪府茨木市室山1丁目
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2010-03-25(Thu)

青松塚古墳

この古墳は大阪北警察病院の敷地内の竹やぶの中にある。墳丘の盛土は既に流出して、横穴式石室が露出している。周辺は病院の施設のグランドやテニス場になっており、築造時の円墳の形をとどめていない。「大阪府の文化財」(昭和37年)によると、墳丘約20mの後期の円墳である。片袖式の南に開口した横穴式石室で、石室の長さ3.3m、幅2m、高さ2.4m、羨道の長さ3.6m幅1.1m高さ1.3メートルを測り、墳丘より円筒埴輪・人物・家形などの埴輪が並べられていた。副葬品は、画文帯神獣鏡・彷製乳文鏡・切子玉・小玉・銀製空玉・銀環・銅指輪・水晶製三輪玉・鉄刀・鉄矛・鉄鏃・鉄斧・鉄鑿・鐙・雲珠・辻金具・杏葉・馬鐸・革金具・須恵器・土師器等豊富な副葬品がある。
所在地:大阪府茨木市室山1丁目
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2010-03-25(Thu)

関西学院神内古墳

関西学院神内古墳は、直径約12mの円墳で、南に開口する右片袖式の横穴式石室を有する。石室は、狭長な平面フランを呈しており、玄室長4.74m、羨道長5m奥壁幅1.5m、羨道幅1.2m、玄室高2.4mを測る。玄室の両側壁には持ち送りが見られ、石材には花崗岩の円礫を使用している。埋葬遺骸の一部と金環5、滑石製勾玉、琥珀製棗玉2、碧玉製管玉7、水晶製切子玉6、硝子製小玉35、鉄鏃4、馬具、革帯留金具片1、須恵器完成品(坩1、杯1)が出土している。古墳築造年代は、石室平面フラン、出土遺物より考えて7世紀と見られる。
所在地:兵庫県西宮市上ヶ原一番町
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2010-03-24(Wed)

タンポポ

タンポポの花が咲いてました。
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2010-03-24(Wed)

桜が咲いていました。

桜が咲いていたので写真UPします。
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2010-03-16(Tue)

菜の花

菜の花が家の庭に咲いていたので写真UPします。
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それと鶯が最近鳴いていますね。

2010-03-13(Sat)

今月の読書

今月の読書についてまだかいてませんでしたね。2週間ほど前に図書館から借りてきてためになったのでこの本を紹介します。



2010-03-08(Mon)

万博公園桜祭り

3月27日(土)から4月11日(日)まで万博公園において桜祭りが行われます。
園内にはソメイヨシノ、ヤマザクラなど9種類、約5,500本の桜があり、満開時の桜並木は圧巻です(数年前に見に行ったときはすごかった)。太陽の塔とのコントラストも美しいです。夜間(18:00~21:00)には日中の華やいだ雰囲気と違うライトアップされた幻想的な夜桜も楽しむことが出来ます。
ぜひお花見の時期に万博公園に行ってみてはいかがでしょうか。
所在地:吹田市千里万博公園



2010-03-05(Fri)

近松門左衛門の墓

曾根崎心中の作者として有名な近松門左衛門の墓が大阪市内にあると言うのをご存知ですか。
近松門左衛門の生涯については余り詳しく知られていない部分もあるが、「曾根崎心中」を初めとする浄瑠璃の作者として有名である。
昔近松門左衛門の墓は法苗字境内にあったが移転したため、財団法人住吉名勝保存会により現況のように整備された。
場所:大阪市中央区谷町8丁目1
最寄り駅:地下鉄谷町線「谷町6丁目」下車南約400メートル
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2010-03-05(Fri)

一心寺

大阪市内に一心寺というお寺があるのをご存知ですか。このお寺ではお骨佛様がお祀りされているお寺として有名です。
一心寺の納骨堂には現在7体のお骨佛様がお祀りされています。明治20年に第1体目が造立されて以来、10年ごとに開眼しておりますので通算では13体になりますが、戦前に造られた6体は残念ながら戦災で焼失いたしました。
天王寺動物園の近くです。
一心寺無料駐車場は、国道25号線と松屋町筋の交差点を南に少し下った左手にあります。
(入庫利用時間:7時~16時まで)30台しか駐車出来ませんのですぐ満車になります。
できる限り公共の交通機関をご利用下さい。
年中無休(午前9時~午後4時)
〒543-0062 大阪市天王寺区逢阪2丁目8-69
電話 06-6771-0444
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2010-03-04(Thu)

確定申告終りました。

確定申告書昨日書き終わりました。昨夜に税務署の夜間窓口に投函しておきました。

最近まで暖かかったけどまた寒くなり始めましたね。来週また寒くなるそうだ。風を引かないように気をつけようと思います。

2010-03-02(Tue)

牧野車塚古墳

大阪府内の北河内地区(京阪電鉄沿線)にはいくつかの古墳があるが、その中では保存状態が良い古墳である。この古墳は標高約22mの枚方台地北縁に築かれた前方後円墳で、大正11年3月に国の史跡に指定されている。全長107.5m、後円部径54.5m、前方部幅44mを測り、この地域では結構大きな規模の古墳である。墳丘の主軸は、ほぼ東西線上にzり、後円墳は、西に、前方部を東に配している。周囲には空壕がめぐらされ、南側と西側とに顕著な外堤が設けられている。空壕は幅約10mを測るが、壕底が一定しておらず、南西隅が最も高く、西側のもっとも低い所と比べると、約2.5mもの比高差があることは、後世の土砂崩れなどの要因による物ではなく、いしらく築造当所から濠底の高さは統一されていなかったものと考えられる。またこのことは、この古墳の濠が、平野部の中期古墳に典型的に見られる水濠とは異なることを示している。なお昭和53年度に後円部西側で行われた調査では、幅約4~5m、深さ約20~30㎝の濠跡が確認され、さらに、濠の内側にて、約10㎝に感覚で2個の円筒は庭が検出された。この調査結果により、現在ではその痕跡は全く認められていないが、かつてこの古墳には2重の濠が存在したという指摘が容認されることになった。築造時期については、内部主体や副葬品が明らかでないため、明確に出来ないが、後円部が前方部に比べてやや高く、前方部がまだ十分に発達していないことからおおむね古墳時代中期前半だと考えられる。なお、現在では、葺石、埴輪類は墳丘では全く認められないが、昭和3年頃には、後円部に円筒埴輪が樹立されていたらしい。
この古墳の南から西方一帯には、かつて、いくつかの小古墳が存在していたと言われ、赤塚、ショーガ塚、子供塚などの名が知られているが、全て、現在では、ほとんど何も明らかにされないまま消滅してしまった。ただ赤塚古墳については、坂村(枚方市)の医学者三浦蘭阪(1765~1843年)が、文化3年(1806)に刊行した書物の中で「赤塚古墳には木棺が直葬され、副葬品として、当期、銅製品、鉄刀、数枚の銅鏡が出土した」ことが記載されていたらしい。また、赤塚古墳の存在した付近で、人物は庭の腕と考えられる破片が見つかったらしい。
昭和61年にこの古墳の南東部で行われた発掘調査では、墳丘は完全に削られているが、計4基の小円墳が確認され、うち1基からは木棺の痕跡も検出された。これらの古墳の出土遺物から6世紀代後半の築造と考えられる。このように、現在ではただこの古墳だけが独立してあったように見えるが複数の古墳がこの周辺に存在し、古墳群を形成していたことがわかる。
所在地:枚方市片鉾東町1丁目
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2010-03-02(Tue)

勝福寺古墳

勝福寺古墳は、明治24年頃壁土取りの際に発見され、横穴式石室から多くの遺物が出土しました。墳丘は、長らく南北2つの円墳が連なったものと考えられてきましたが、平成13年~15年の大阪大学考古学研究室と川西市教育委員会の発掘調査で、全長約40mの前方後円墳であることが分かりました。後円部の横穴式石室は、玄室幅2.3m、全長約9mの規模の右片袖式石室で、北側に向けて口を開いています。明治時代の発見時に、銀象嵌龍文刀、画文帯同向式神獣鏡、六鈴鏡等の遺物が出土しまました。前方部では昭和46年の発掘調査で木棺が見つかり、金製耳環、銀製クチナシ玉、鉄刀、鉄鏃等の副葬品が埋葬当時のままで出土しました。前方部では、このほか昭和8年に五獣形鏡、鹿角製刀装具の付いた刀片が出土しています。墳丘については平成13年の調査で、後円部北側の裾と中段の平坦面が見つかり、中段からは円筒埴輪、甲冑形埴輪が出土しました。古墳の年代は、古墳時代後期でも6世紀初め頃のもので、前方後円墳であることや、畿内でも初期の横穴式石室を導入していること、優れた副葬品を持つこと等から、川西南部を拠点に活躍した首長の墓と考えられます。なお、勝福寺古墳の出土遺物は、川西市文化資料館で展示しているそうです。
所在地:川西市火打2丁目
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