2010-01-31(Sun)

1月も今日で終わり

1月も今日で終わりですね。
昨日尼崎市内の古墳を写真で撮影してきたので後日少しずつUPしていきます。
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2010-01-31(Sun)

桜塚古墳群

桜塚古墳群


桜塚古墳群は、豊中台地の中央、標高20~25m付近の低位段丘上に立地する古墳群。大阪府豊中市の中央部、岡町駅を中心に東西1.2km、南北1kmの範囲に分布する。1956年(昭和31年)5月に国指定史跡となった。
古墳時代前期後半(4世紀)から、中期末か後期初頭(6世紀)に渡って形成されたといわれる。 この古墳群については、1874年(明治7年)、1879年(明治12年)、1881年(明治14年)に大規模な調査があり、「壱日三捨六墳全図」「三十六墳所在総図」「諸墳略図面書上」などの絵図が編集・保存されている。
昭和10年代に実施された土地区画整理事業により、狐塚古墳、北天平塚古墳、南天平塚古墳などの発掘調査が進み、北摂最大の中期古墳群として周知されるようになった。
絵図の36基に、近年の調査によって発見された桜塚第37号墳から第44号墳までの8基を加えた、合計44基の古墳が確認されたが、宅地開発に伴い39基は破壊され、現存するものは、

「大石塚古墳」「小石塚古墳」「大塚古墳」「御獅子塚古墳」「南天平塚古墳」の5基のみとなっている

桜塚古墳群は大まかに次の四群に区分される。

西群 大石塚・小石塚古墳を中心とするグループ

中央群 荒神塚古墳、桜塚古墳

東群 大塚・御獅子塚古墳を中心とするグループ

南群 阪急曽根駅の北東部を中心とした近年確認されたグループ

この古墳群における特異な状況は、東群の各古墳で棺の身と蓋を留めるのに鎹(かすがい)が使用されていたことである。 また、出土遺物として目を引くものは、荒神塚古墳の金銅製鳳凰文透彫帯金具や無名墳の細線式獣帯鏡などが挙げられる。

○実在する古墳の詳細


古墳名大石塚古墳
所在地豊中市岡町北1-6
形状前方後円墳
大きさ東西長45.4m、南北長87.2m、高さ5.0m
説明大石塚古墳は、桜塚古墳群中の西端に位置し、南面する前方後円墳である。 北側に位置する小石塚古墳と南北方向にほぼ主軸を揃えるなど、計画的に築造されたことがうかがわれる。 小石塚古墳とともに、昭和54年の史跡整備事業に伴って墳丘・規模などの確認調査が実施された。 3段築成、全長80m以上、後円部径約48mで、桜塚古墳群で最も大きな古墳。墳丘には河原の石が葺石として、各テラス面には玉砂利がそれぞれ敷き詰められており、「石塚」の名の由来となったといわれる。かつて、墳丘の平坦面には円筒形埴輪と朝顔形埴輪が各々3体一組で配されていた。調査発掘後、それらは豊中市立伝統芸能館に展示されている。この古墳は古くから原田神社の所領に属し、聖域内に存在することから守られてきたもので、市内ではいち早く昭和31年に国の史跡に指定された。出土した埴輪類から古墳時代前期後半に築造された古墳とみられ、桜塚古墳群出現時期を位置づける古墳として重要である。また、4世紀中葉以降の政権中枢部や周辺地域との関係を推察する上においても貴重な資料を提供している古墳である。

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古墳名小石塚古墳
所在地豊中市岡町北1-6
形状前方後円墳
大きさ東西長29.0m、南北長49.0m、高さ3.6m
説明小石塚古墳は、大石塚古墳の北側に位置し南面する前方後円墳である。 大石塚古墳との間には浅い谷地形が入り込むが、主軸はほぼ揃えられている。 昭和54年の史跡整備事業に伴って墳丘・規模などの確認調査が実施された。 その結果、全長49m、後円部2段築成、前方部は1段構成と考えられ、大石塚古墳同様に東側のみに周溝を有する。 葺石は用いないが、埴輪は使用している。 埴輪には壷形・朝顔形・円筒形などが認められているが、墳丘の損壊が激しいため、すべて遊離しており、原位置と配置は不明である。 後円部墳頂には主軸に沿って埋葬施設(粘土槨)が確認されている。 棺は形状から割竹形木棺で、北頭位で埋葬されていたと想定できる。 棺は黄白色の良質の粘土で包まれ、周囲には赤黄褐色の砂礫土が充填され、下部には砂利が敷かれていた。



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古墳名大塚古墳
所在地豊中市中桜塚4-15
形状円墳
大きさ東西長56.0m、南北長46.9m、高さ18.0m
説明大塚古墳は、桜塚古墳群の東群を代表する古墳である。 昭和10年代に周辺一帯に施された土地区画整理事業により北と西の裾部を一部削除された。 昭和50年代に入り、墳頂部より副葬遺物の露出を見るようになり、昭和58年に緊急性を重んじ発掘調査が実施された。 高さ約18mの3段築成の円墳であり、幅12~13mの周濠を含めると直径約80mに達する。造成は5世紀初めごろとみられている。 墳頂部には南北方向に主軸を採る並列された3体の主体部が存在した。 主体部は大きく分けて東槨(かく)と西槨と呼ばれているが、東槨は、拳大の石で棺の両端を取り巻くように充填させる特異な構造であるが、そのほとんどがすでに流失していた。 西槨は、盗掘により既に大きく損壊していたが、長さ7.1mにも達する長大な割竹形木棺が2つ南北に並べられていたという。 東槨木棺内部からは、鏡・鉄製甲冑・鉄製剣・盾などの副葬品が出土し、調査発掘後、これらは国の重要文化財考古資料に指定され、豊中市教育委員会に保管されている。 大塚古墳は1990年(平成2)に史跡公園として整備された。



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古墳名御獅子塚古墳
所在地豊中市南桜塚2-2
形状前方後円墳
大きさ東西長21.9m、南北長49.0m、高さ3.6m
説明御獅子塚古墳は、南面する前方後円墳で、大塚古墳の50m南に位置する。桜塚古墳群東群を代表する古墳の一つで、大塚古墳に次ぐ規模を有する。この古墳も昭和10年代の土地区画整理事業で後円部東側の一部は削除されたものの、幸運なことに大部分は保存された。その後、南桜塚小学校体育館とプール建設に際し、後円部西側の一部と前方部周濠部が破壊された。自然崩壊も激しかったので、昭和60年と平成2年に史跡整備事業とともに発掘調査が実施された。 周濠を含めた全長は70mである。墳丘は2段築成で2段目斜面のみ葺石を施すという特異な外観を呈する。円筒形埴輪が密に樹立しており、中には須恵質のものも含まれる。形象埴輪片が数多く出土しており、種類は家、蓋、靱、盾、動物などが存在し、初期須恵器の高杯片も出土している。後円部墳頂では主体部が上下で直行する2体検出されている。第一主体部では、鋲留め技術導入期の試行製品と思われる三角板鋲留短甲や小札鋲留衝角付冑など歴史的に貴重な遺物のほか、農耕具や馬具類、漆塗り革製盾が良好な状態で出土するほか、勾玉などの玉類も約400点出土した。第二主体部では、甲冑と頸。肩甲の付属物を伴う1組、大刀1口、槍3口、鉾4口、鉄鏃(てつやじり)184本、鎹(かすがい)、盾などが出土した。 御獅子塚古墳から出土した鉄製武器・武具類は、大陸系技術導入期の様相を如実に表している貴重な資料である。 また、革製盾の全貌が明らかにされた稀有な例で、取り上げ保存された唯一のものである。 これらの資料は5世紀を考える上で欠かすことのできない一級資料である。



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古墳名南天平塚古墳
所在地豊中市南桜塚3
形状円墳
大きさ東西長27.2m、南北長18.0m、高さ5.5m
説明南天平塚古墳は、昭和10年代の土地区画整理事業に伴う道路計画によって、4分の3が破壊されることとなったため、昭和12年に発掘調査が実施された。 その結果、円筒埴輪列を伴う2段築成、直径約20m、高さ5.5mの円墳であることが明らかになった。 南東部では、円筒埴輪列で囲まれた突出部が検出され、方形区画の作り出しが付設していることも判明した。 4分の3が道路によって破壊された後、平成3年に4分の1の残りの部分を豊中市教育委員会が再調査を実施した。 その結果、一段目のテラスの埴輪列の上に幅7~8mの周壕を有することが明らかになった。 そして、墳頂の下2.5mから2個の割竹形木棺が発見された。 それとともに、彷製六獣鏡、鉄刀、鉄剣、短甲、衝角付冑が副葬され、棺蓋の上には革盾をのせた形跡が認められた。 また、木棺の両端外側には鞍、鐙(あぶみ)、轡(くつわ)、杏葉(ぎょうよう)などの馬具一具を置き、北側外側には鉄槍一筋を横たえ、赤・黒とりどりに彩られた弓数張を添えてあった。 槍は木質部が腐朽すたにも関わらず、柄の表面の糸巻きが漆で固められた被膜となって遺存していたため、槍先から石突まで3.3mにおよぶ全形を確認できた。



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○破壊された古墳(名称があるもの)


名前所在地の区分(上記参照)
御位塚(ごいづか)古墳円墳西群
無名前方後円墳西群
無名円墳西群
無名円墳西群
無名円墳西群
無名円墳西群
無名前方後円墳西群
無名円墳西群
無名円墳西群
無名円墳西群
無名円墳西群
無名前方後円墳西群
無名円墳西群
無名円墳西群
無名円墳西群
無名円墳西群
無名円墳西群
無名円墳中群
桜塚(さくらづか)古墳円墳中群
荒神塚(こうじんづか)古墳円墳東群
小塚(こづか)古墳方墳東群
狐塚(きつねづか)古墳前方後円墳東群
北天平塚(きたてんびんづか)古墳円墳東群
出雲塚(いづもづか)古墳円墳東群
嫁廻塚(よめまわりづか)古墳円墳東群
女塚(めづか)古墳円墳東群
地王塚(じおうづか)古墳円墳東群
大明神墳(だいみょうじんふん)円墳東群
伯堂塚(はくどうづか)古墳円墳東群
故事記塚(こじきづか)古墳円墳東群
参拾六塚(さんじゅうろくづか)古墳円墳東群
桜塚第37号墳不明南群
桜塚第38号墳不明南群
桜塚第39号墳不明南群
桜塚第40号墳不明南群
桜塚第41号墳不明南群
桜塚第42号墳不明南群
桜塚第43号墳不明南群
桜塚第44号墳不明南群

最寄り駅:阪急宝塚線岡町駅




楽しい古墳めぐり―大阪府内の古墳をたずねる楽しい古墳めぐり―大阪府内の古墳をたずねる
(1994/07)
瀬川 芳則

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2010-01-30(Sat)

万年寺山古墳

万年寺山古墳は明治37(1904)年、枚方小学校運動場拡張工事中に発見された。当時の記録によると、主体部は粘土郭と思われ、内部からは青銅鏡8面、鉄刀等が発見された。青銅鏡は、現在東京大学理学部が保管している。築造年代は4世紀中頃と推定され、形状は不明であるが、標高37.7mの丘陵の突端部、眼下に淀川をのぞむ河川交通の要衝の地に築造されていることは、被葬者の生前の性格を表していると思われる。またこの地には奈良時代創建の密教系寺院の万年寺があったが、明治3年の廃仏毀釈により廃寺となり、本尊は三矢町の情念寺に預けられた。式内意賀美神社は古くは他の所にあったが淀川の鎮守として航行安全と水害排除の祈願のために創建されたと伝えられている。
所在地:枚方市枚方上之町
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2010-01-27(Wed)

帝塚山古墳

帝塚山古墳は、大阪市住吉区帝塚山にある古墳。近隣の帝塚山という地名のルーツ。
現在は、帝塚山古墳は一つだけだが、明治時代までは、俗に「大帝塚」と「小帝塚」と呼ばれる大小二つの古墳があり、この地に館を持っていた古代豪族の大伴氏の大伴金村とその子の墓とされていた。大帝塚の方は、現在の大阪市立住吉中学校の敷地となり、小帝塚の方が帝塚山古墳として現存している。前方後円墳。
帝塚山は、元はたんに「塚」または「手塚」「手塚山」と呼ばれていた。阪堺線の塚西駅の名称は、塚の西という意味でその痕跡を伝えていると言えるかもしれない。
明治天皇が大阪に行幸し、かつての南朝の後村上天皇の御所だった住吉行宮に滞在し当地に足を運んだことを機縁に「帝塚山」という名称に改められたとされる。
財団法人住吉村常盤会が管理している。
規模:全長88m、高さ9m
築造年代:4世紀末~5世紀初頭
所在地:大阪市住吉区帝塚山西2丁目8
最寄り駅
南海電鉄高野線帝塚山駅下車、西へ約100m
阪堺電気軌道阪堺線塚西駅下車、南東へ約200m
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2010-01-27(Wed)

太秦高塚古墳

太秦高塚古墳は、秦・太秦の丘陵上に所在する太秦古墳群で、唯一現存する古墳です。2001年(平成13年)の発掘によって、古墳の形状や保存状況がわかりました。古墳は、全長39m、円丘部の直径37m、高さ7mで、2段に気づかれていることが解りました。1段目の平坦部(テラス)には、円筒形は庭列がめぐっていることが確認されました。また、古墳の周りには幅約7.5m、深さ2mの濠が残っていました。北西側には、「造り出し」と呼ばれるまつりを行ったと考えられ手いる区画が付いていることがわかり、ここから人物・水鳥・鶏・家・盾・衣科蓋(きぬがさ)などの形をした埴輪や土器が集中して見つかりました。古墳の頂上には盛り土が大きく流出して大きく変形していましたが、東側で主体部の1部が残っており、南側より短甲(よろい)・鉄鏃(やじり)・鉄斧・鐙(あぶみ)などの副葬品の鉄器がまとまって出土しました。墳頂部の大きさから西側にも主体部があったと思われます。出土した埴輪や土器などから、太秦高塚古墳は5世紀の後半にかけて気づかれたと考えられます。kウィ譲渡しては円墳又は帆立貝型の古墳であると推測される。
所在地:大阪府寝屋川市太秦高塚町(豊野浄水場横)
アクセス:京阪本線「寝屋川市駅」よりバスに乗り換え「豊野浄水場前」下車すぐ
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2010-01-27(Wed)

寝屋古墳

大阪府営寝屋川公園内にある、横穴式石室をもつ古墳です。打上川右岸の南東に傾斜する斜面に立地し、南向き(谷側)に開口する横穴式石室を主体部とします。古墳は1991年(平成3年)の市史編纂事業にともなう墳丘測量調査と1992年(平成4年) の大阪府教育委員会による範囲確認調査によって、直径約22m、高さ約5mの円墳であることが判明しました。墳頂部はかなりの土砂の流出が想定され、南側(谷側)の墳丘裾部は逆に人為的な土砂の堆積で埋没しています。墳丘上で埴輪・葺石は確認されていません。確認調査では墳丘の背面(北側)で幅3m 程度の濠が検出されています。主体部は巨石を使用した横穴式石室です。現状では長さ5.5m、奥壁幅2.5m の規模です。確認調査でこの石室の前面に羨道または墓道になる落ち込みが見つかっていて、残っているのが玄室部分で、 羨道部分の上部が破壊されていることが判明しました。以上のことから横穴式石室を復元すると、全長10m前後と推定されます。全長10mを超える横穴式石室は府内でも数少なく、北河内では最大規模になります。石室の奥壁部分の現在の高さは約1.5mですが、石室内に大量の土砂が流入していることが想定され、 本来の床面からの高さは2m以上あったと推測されます。主体部の発掘調査が行われておらず、副葬品などが不明のため、古墳の時期や被葬者の性格などについては不明です。巨石を利用した横穴式石室の構造から6世紀末から7世紀初めに築造されたと考えられます。巨大な横穴式石室をもつ本古墳の被葬者は広範な地域を治めた有力な豪族と推測されます。
円墳と推測される。
所在地:大阪府寝屋川市寝屋2370-1
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2010-01-23(Sat)

ストックオプション制度は本当に得な制度か

「ストックオプション」とは、自社株の株価上昇を活用した報酬制度の一種といえます。米国において「ストックオプション」は積極的に活用されています、とくにソフトウェアなどの情報サービス産業や多くのハイテク産業など、ベンチャー企業における経営手法の一つに組み込まれ、経営幹部をはじめ従業員の企業家精神の高揚に貢献してきた部分があります。わが国でも、「ストックオプション」を導入する企業は公開・非公開企業を問わず多くあります。人件費コストを抑えながら、なおかつ優秀な人材を確保することを可能とする「ストックオプション」は、企業自身にとっても相当に魅力的な制度となっています。

①ストックオプション制度とは
ストックオプション制度とは「取締役や従業員が、あらかじめ定められた価額(権利行使価額)で会社の株式を取得することのできる権利」のことです。権利を付与された取締役や従業員は、将来において株価が上昇した時点で権利の行使を行い、会社の株式を取得します。そして、当該株式を売却することにより、株価上昇分の差益を報酬として得ることができるのです。報酬額が企業の業績向上にともなう株価上昇と直接連動しているため、権利を付与された取締役や従業員の株価に対する意識は極めて高いものとなります。つまりストックオプションは、業績向上へのインセンティブとなるわけです。また、業績向上は株価上昇につながるのが一般的ですから、既存株主にも利益をもたらす制度がストックオプションといえます。

②ストックオプション制度のメリットは
・企業(経営者側) のメリット
「業績が上がれば所得も増える」
従業員が一生懸命努力して業績が上がれば会社の業績が上がり、社員の所得が増え、株価も上昇し、社員の愛社精神が高まる。
「報酬コスト(従業員に対して支払う給料)の低減」
権利の付与により、株価上昇にともなう差益として手にする報酬は、株式市場から提供されることになります。よって、株価上昇が大きなもので報酬額が増大しても、会社が負うコストは変わりません。会社からすれば、コストの発生を見ることなく活用できる成功報酬制度といえます。
「人材確保と流出の予防」
役員・従業員にしてみれば巨額な報酬は大きな魅力です。ストックオプションなら株価上昇がもたらす莫大な報酬額を、役員・従業員に与えることも可能となり、報酬額の面から有能な人材を確保したくてもできないでいる企業にとって、人材採用の点からも大きな魅力があるはずです。また、ストックオプションを活用した成功報酬制度は、優秀な人材の確保だけでなく、人材流出防止のためにも大きな効果を上げてくれます。

・従業員側のメリット
「業績(株価)が上がれば所得も増える」
従業員が一生懸命努力して業績が上がれば会社の業績が上がり、社員の所得が増え、株価も上昇する。そうすれば報酬も増えたことになる。

③ストックオプション制度のデメリットは
・「誰もが納得する明確な基準でストックオプションの付与がなされているか」
ストックオプション制度を上手く運用するためには明確でかつ合理的な基準に基づいた付与基準がなければ従業員の士気に関わることになります。例えば「社長の友人だから」「社長の親族だから」「長い間勤務しているから(勤続年数が長いから)」と言う理由だけでたいした貢献もしていないのにたくさんのオプションを手にしたりする人がいると、社員の志気も下がるでしょう。当然ですが、業績向上や株価上昇に貢献した人に正当に報いる付与基準であることが絶対に必要です。ストックオプション制度はそもそも優秀な人材を獲得し、流出させないようにするための制度です。正しい運用をしないなら制度そのものを導入しない方がいい。

・「株価しだいで社員の士気に影響が出る」
ストックオプションで役員・従業員が期待したとおりの報酬を手にするためには、株価の上昇が予定以上に続かなければなりません。極めて近い将来の株価ならまだしも、何年も先の株価を予定以上の価格に維持していくのは簡単といえることではないでしょう。運悪く株価が付与後に上昇せず、期待したような利益が得られない(場合によっては利益ゼロ)ようなケースでは、役員・従業員に失望感が広がり、志気が一気に低下する可能性も大です(株価がさえない動きをする→給料が期待していた以上にあがらない→社員の間に嫌な雰囲気が漂う(優秀な人材が退職する可能性が出てくる)→株価が下落する→結果的に財産が目減りすると言った悪循環に陥るケースがある)。

・「会社が倒産した場合、財産がゼロになる可能性が高い」
株価が怪しい動きをする(あまり上がらない)場合ならまだましである。もし会社が破綻した場合どうなるのか知っているだろうか。当然、株式は紙くず同然になってしまう。そんなことはないと思っている人がいるかもしれないがその考え方は甘い。民間企業である以上破綻する可能性がある。実際山一證券や北海道拓殖銀行、日本長期信用銀行、日本債券信用銀行、マイカル、最近の実例で言えばJAL、リーマンブラザースのケースを考えてみればよく分かる。就職人気企業ランキングの上位に入っていた会社ですら倒産することがある。そのことも考えておこう。

「株価しだいで社員の士気に影響が出る」「会社が倒産した場合、財産がゼロになる可能性が高い」という話を書いたついでに1つ書いておきたいことがある。実際、1999年から2000年にかけてのITバブルの時期にIT関連企業に勤務していた人の中には自社株の株価上昇だけで億万長者になった人もいたらしい。ただし、実際に会社が破綻してしまって財産が紙くずになった人も現実にいることは忘れてはいけない。

・経営陣や社員のモラルの低下
「株価の上昇=報酬増大」の方程式があるため、経営陣がともすると株価対策を最優先に考えるあまり、好ましくない決算操作(粉飾決算)を行ったりする可能性もあります。これはライブドアのケースを見れば分かると思う。

④終わりに
「自社株購入」「ストックオプション制度」が必ずしもいい制度とは言い切れない。もしどうしても「自社株購入」「ストックオプション制度」がよい制度だという考え方を変えたくないのならば無理をしてまでして考え方を変える必要性は無い。あくまでも1つの考え方を提示しているまでのことですから。


2010-01-20(Wed)

小壷古墳

小壺古墳は、神戸市垂水区五色山4丁目に存在する円墳(直径67メートル、高さ約9メートル)で国の史跡に指定されている。墳丘は二段に築かれ、墳頂部と墳丘斜面のテラス面には、埴輪が並べられており、多くのヒレ付円形埴輪と家形埴輪が数体分が発見された。東側に隣接する五色塚古墳と異なり、斜面には石は葺かれていなかった。また、濠の中には、土橋が設けられている。築造時期は、埴輪の形などから、五色塚古墳とほぼ同じ5世紀初め頃と推定されている。

所在地:兵庫県神戸市垂水区五色山4丁目

2010-01-20(Wed)

東求女塚古墳

東求女塚古墳は神戸市東灘区住吉宮町1丁目にある、4世紀後半に造られた前方後円墳(全長80m(推定))。菟原処女の伝説に登場する茅渟壮士(ちぬおとこ)の墓と伝えられるが、実際にはこのあたりの豪族のものとみられる。元民有地であったため、塚は崩されて原型は留めていない。現在は西側の前方部が神戸市立遊喜幼稚園の敷地、東側の後円部が求女塚東公園となり、円形に土を岩で囲んだ残土の上に東求女塚之碑が立てられているだけである。民有地であったため、土地の所有者が転々とし、封土の一部が削られて畑や家の壁土にまでされたり、阪神電鉄開通の際に住吉川を越えるための勾配作りの路線工事のために土を取るなどして、古墳は無残にも崩されていた。心ある人々の間でこれが問題となり、また名勝史跡調査としてその筋からの達もあって、村会協議会の結果明治37年1月に反高林村有地と交換。封を取られた西部の土地は花六が借りて花卉園とし、後円の封土を残す部分は住民の塵捨場の観となって残された。大正4年(1915年)に至って、所在地である住吉村仲区の住民一同により幾分土を加えて石垣を積み上に梅松楓二十数本を植えて風致を良くして記念碑を立てた。遊喜園(現在の神戸市立遊喜幼稚園)が大正7年(1918年)9月、久原房之助により開設され、園庭の東端に保存される事となる。菟原処女の墓と伝えられるらしい。
○所在地
兵庫県神戸市東灘区住吉宮町1丁目
○出土品
銅鏡6面(三角縁神獣鏡4面)、車輪石、須恵器、土師器等

2010-01-20(Wed)

西求女塚古墳

西求女塚古墳は、兵庫県神戸市灘区にある全長98メートルを超える大型の前方後方墳である。年代は、古墳時代前期に属する。従来はごくありふれた前方後円墳と考えられてきたが、1985年(昭和60年)以降継続的におこなわれている発掘調査の結果、古墳時代前期では最大級の前方後方墳であったことがわかり、墳丘に葺石をともなっていることが判明した。後方部の頂上に設けられた埋葬施設は、1596年(慶長元年)の慶長伏見地震の際の断層が直下を走ったため崩壊していたが、うちのりで長さ約5メートル、幅約85センチメートルの竪穴式石室(副室付竪穴式石槨)であることが判明し、割竹形木棺を納めていることが明らかとなった(第5次調査)。出土品等から築造年代は3世紀後半と推定されている。石室の石材は、地元のものだけでなく、阿波(徳島県)や紀伊(和歌山県)などからも運ばれており、地元の土器は出土しておらず、祭祀に用いられた土師器には山陰系の特徴をもつものが出土していることから、山陰や四国・南近畿などの諸地域と深い交流をもっていたことが推察され、瀬戸内海や大阪湾など水上交通に影響をもつ首長の墳墓であったとも考えられる。1992年(平成4年)から1993年にかけての第5次調査では、邪馬台国の卑弥呼が魏の皇帝から贈られた鏡ともいわれる三角縁神獣鏡7面など計11面の銅鏡(第1次調査の1面とあわせて合計12面)が出土したことで注目を浴びた。主室からは、これら銅鏡と碧玉製紡錘車状石製品を、副室からは、剣、刀、鏃、斧、漁具などの鉄製品が納められていた。
三角縁神獣鏡のうち2面は布にくるまれた状態で出土した。また、京都府の椿井大塚山古墳、福岡県の石塚山古墳、奈良県の佐味田宝塚古墳、広島県の中小田1号墳などの出土鏡とは同笵の関係にある。墳丘については、2001年(平成13年)の第12次調査によって前方部が撥(ばち)形にひらくこと、くびれ部の片側に張出部をもつこと、全長が98メートル以上におよぶことなど新しい知見が得られた。一般に前方後方墳は、ヤマト王権の直接の支配下に入らず、周辺部で独自の勢力を有していた有力な豪族の古墳に多いとされ、本古墳の被葬者もそうした一人であった可能性が高い[1]。

○主な出土品
三角縁神獣鏡 7面
画文帯神獣鏡 2面
神人龍虎画像鏡 1面
半肉彫獣帯鏡 2面
鉄製品 230点
碧玉紡錘車形石製品 1点
土師器 14点
織物残欠 2点
土師器残欠 179点
石室石材 54点
以上は2005年に一括して国の重要文化財に指定されている。 なお、伝出土品として画文帯環状乳神獣鏡1面が知られる。

○周辺環境と古墳の現況
周囲は、処女塚・東求女塚とともに万葉集や大和物語などに登場する悲恋伝説「菟原処女の伝説」の舞台としても知られている。菟原壮士の墓と伝えられる.
処女塚古墳(全長70メートルの前方後方墳)をはさんだ東側には東求女塚古墳(全長80メートルの前方後円墳)があり、3つの古墳は海岸線に沿って一直線に、だいたい等間隔の距離でならんでいる。
1964年(昭和39年)までは邸宅として活用された私有地だった土地が、神戸市に買い上げられて公園となり、現在は遺跡公園「求女塚西公園」として整備されている。
2005年(平成17年)、出現期古墳の様相を示す重要な古墳の1つとして国の史跡に指定された。

○所在地
〒657-0844 兵庫県神戸市灘区都通3丁目1

○交通アクセス
阪神本線 西灘駅 徒歩2分
JR神戸線 灘駅 徒歩12分

2010-01-20(Wed)

処女塚古墳

処女塚古墳は兵庫県神戸市東灘区にある全長70mの前方後方墳、箱式石棺。築造年代は4世紀前半と推定されている。1922年(大正11年)3月8日に国の史跡指定された。主に山陰系土器が出土しており石屋川流域に存在する郡家遺跡集落の一部とされている。所在地から西2000mの位置にある西求女塚古墳、東1500mの位置にある東求女塚古墳とともに、万葉集や大和物語などに登場する悲恋伝説の舞台として知られている。古墳の際には、湊川の戦いに敗れた新田義貞を逃すためにこの地で討ち死にした小山田高家の石碑が建っている。

○出土品
山陰系土器
○所在地
〒658-0044 兵庫県神戸市東灘区御影塚町2丁目10
○交通アクセス
阪神本線 石屋川駅 徒歩5分

2010-01-20(Wed)

吉田王塚古墳

吉田王塚古墳(別名檜笠岡王塚古墳)は、兵庫県神戸市西区の王塚公園(丸山公園)内に存在する王塚古墳群の一つで明石平野一帯最大の前方後円墳(全長102m、高さ8m)である。5世紀から6世紀前半ごろの大和時代の明石平野の豪族の墓とされるが、それよりも後の日本書紀にでてくる用明天皇と飯之子の子、当麻皇子の妃、舎人皇女(とねりのひめみこ、舎人姫王)が病死したさいに葬られた赤石桧笠岡とされる説がある。過去に周辺にいくつかの古墳群があったが都市開発のため現在は無くなっている。陵墓参考地として宮内庁所有のため資料は少ない。吉田郷土区域の整理時に史跡公園とされる。
○所在地
兵庫県神戸市西区王塚台3丁目
○アクセス
JR山陽本線・西明石駅から神姫バスにて王塚台1丁目下車、北西に徒歩約5分 王塚公園内。

2010-01-20(Wed)

蝶々記念館

大阪府箕面市に「蝶々記念館」があるのをご存知ですか。
あの有名なミヤコ蝶々さんが住んでいた家の跡に記念館があります。テレビドラマで使われた着物や、写真、撮影用セット等が展示されています。
ミヤコ蝶々さんのファンだった方一度訪問してみてはいかがですか。
営業時間  10時~17時
休館日     水曜日
入館料   1,000円
(中学生以下無料)
〒562-0046 箕面市桜ケ丘1-10-43
TEL 072-723-2001 FAX072-723-2009
阪急電車 箕面線 桜井駅又は牧落駅下車、徒歩15分
阪急バス 千里中央より『くれはの里』行き 「桜ケ丘」バス停下車、すぐ
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2010-01-20(Wed)

住宅改造博覧会会場跡地

箕面市桜ヶ丘に「住宅改造博覧会会場跡地」と言うのがあることをご存知ですか。
大正11年(1922年)9月21日から同年11月26日まで桜ヶ丘地区で日本建築協会が主催する住宅改造博覧会が開催されました。総面積約16500㎡の会場には、日本建築協会および建築事務所や建築業者等から実物の住宅25棟をはじめ、建築設備・器具、家具等が出品されました。出品された和洋折衷を基本とする住宅や最新照明、電話、暖房器具等の家具や博覧会を大いに盛り上げ、期間中の来場者数は7万余人にも達しました。博覧会閉会の跡、出品された住宅は販売され、人々が生活するようになりました。大正から昭和、平成と時代は移り変わりましたが、緩いカーブを描く街路、急勾配の屋根やアーチ型の玄関を持つ幾つかの今日まで残され、大正時代の人々の、住宅に対する夢を伝えています。
所在地:箕面市桜ヶ丘2丁目
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2010-01-18(Mon)

鶯塚

この鶯塚は今から1200年ほど昔、名柄町じゃの美姫が鶯を飼って人間のようにかわいがっていた。ところがこの姫が病のために死ぬと鶯は深くその死を悲しみ、歌を詠み後を追うが如く死んでしまった。長者たちは、このうるわしい話を後世に伝えようと鶯を姫と一緒に埋葬して鶯塚と名づけたといわれている。
またな柄は1310年前人皇弟36代孝徳天皇の皇后遺跡で中大兄皇子(後天智天皇)および中臣鎌足(藤原氏祖)と共に曽我氏の専横を退けて、大化の改新を断行された由緒の地であり、古来より鶯稜と証せられているので天皇に関係の高貴な方の御墓であろうとある。
又正徳3年夏、河内狭山の藩士で笹本源之助が父の仇加州も浪人羽滝伝太郎を母と共に4年間捜し求めてついにながら長者の配慮によりこの鶯塚のほとりで見事成し遂げて狭山藩に帰ってから長者の娘お梅を妻に迎えたという。この鶯塚を舞台にした芝居もある。昔は小丘の上に五輪塔の墓があってその前に「鶯塚」と刻んだ今の石標が立てられ小庵もあって四時が香が絶えなかったという。
大阪市北区長柄東2丁目
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2010-01-12(Tue)

いらなくなったブランド品の買取なら

大掃除などをしているといらなくなったブランド品が出てくることってないですか。こんな時に便利なのが出張買取をしてくれる大国矢です。大掃除等をしていて出てきたブランド品の処分は以下のサイトまで。





2010-01-11(Mon)

郡山城

茨木市内に郡山城というお城があったことをご存知ですか。郡山城は郡正信が城主。郡正信とは高槻城城主和田惟政の家臣で、郡村、中河原村、宿河原村、上野村、下井村、五ヶ市村、七ヶ村を領地にしていたようである。郡山城の沿革についてはほとんどが不明で、いつ築城され、いつ廃城になったのか解っていない。白井河原合戦で和田惟政、池田勝正の連合軍と、荒木村重、中川清秀連合軍が戦ったが、その時荒木村重、中川清秀連合軍が郡山の馬塚という地域に陣取たが、それは郡山城ではなかったかという指摘もあるが、ここから北へ約200m先の「本頂寺」周辺との指摘もあり、詳しくは解っていない。
城郭についても不明な点が多いが、明治時代初期に作成されたと思われる『東摂城址図誌』に郡山城の絵図がある。これによると城跡とされる部分は南北六十間(約110m)、東西六十七間(約120m)あり、現在の浪速少年院の大半が郡山城跡と推定されている。またこの『東摂城址図誌』には約三分の一が「山地」、約三分の一が「畠地」、約三分の一が「田地」とあり、この時にはすでに城跡としても消失し、一部が田畑化していたと思われている。浪速少年院は小高い丘の上にあり、このような場所が城郭として選地されたと思われている。また、茨木市教育委員会が建てた案内看板の下に、郡山城で使用されていたと思われる石垣の石が置いてある。これは大正11年(1922年)に浪速少年院の工事中に大量の石垣が発見され、その中に郡家の家紋と推定されている、三ツ鱗や三ツ星の刻印された石も出土した。またこの周辺(西に200メートル程いったところにある公団住宅内)には「城の内」、「門口」など城跡を思わせる地名が残っている。
所在地:大阪府茨木市郡1丁目
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2010-01-11(Mon)

禁野車塚古墳

この古墳は天の川右岸の低位段丘上に築造された、前方部を西に向けた前方後円墳である。1966年に墳丘測量、70年に範囲確認調査が実施され、埋葬施設は不明だがその規模は全長110m、後円部径5m、円高9.9m、前方部幅40mと北河内屈指であり、4世紀中頃の築造と推定され、天野川水系の古墳時代を考える上で不可欠の古墳として1972年に現状の墳丘部分が国史跡に指定された。
2006年には後円部南東側で範囲確認調査が実施され現地表下約2.5mにおいて後円部墳丘部裾を検出することが出来、後円部が60m前後と従来考えられていたよりも大型になることが判明し、2007年に古墳南側の既存の公園部分と合わせて史跡の追加指定を受けた。そして2008年の再測量の結果、全長120m、後円部径63m、前方部幅55mと言う規模の復元案が提示されるようになった。また、倒卵形気味の後円部に撥方(ばちがた)の前方部が取り付き、後円部から前方部に至るスロープも明瞭であると言う墳形の特徴が奈良県桜井市の箸墓古墳等に類似し、築造時期も4世紀初頭以前にさかのぼる可能性が浮上するに至っています。このように禁野車塚古墳は、大阪府内でも最古クラスの前方後円墳であり、淀川左岸の古墳時代の始まりを解明する上でも極めて重要な古墳と言うことが出来ます。
所在地:大阪府枚方市宮之阪5-381
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2010-01-11(Mon)

倉治古墳群

今から約1300~1400年前、この付近の一帯には大陸から移り住み、機織を専業にしたはたやま(交野市寺)、はたもの(同倉治)、はただ(枚方市津田)と言う集落が栄えていたと伝えられている。これらの集落の村長の墳墓として造られたのが倉治古墳群や竜王山麓の寺古墳群です。昭和26年関電枚方変電所建設のため、整地中に8基の古墳発見されました。これらの古墳は全て横穴の石室を持つ横穴式古墳と言う古墳です。整地の際、1部の古墳は破損を受けましたが大阪府・交野市教育委員会並びに地方の交野市考古学会の5ヶ月に及ぶ調査が続けられ、当時としては珍しく適切な記録保存の処置がなされました。調査の結果、古墳石室内からは被葬者の遺骨の他、金環や勾玉等の装身具、刀剣・農具等の鉄製品、並びに瓶・壷等の土器類が副葬品として出土しました。現在これらの貴重な出土品は交野市立教育文化会館内(交野市倉治6-9-21)にて大切に保管され一般に公開されているそうです。なお遺骨については、この地に改めてその霊のために新しく墓を設けてこれを「古墳塚」としたそうです。又、毎秋には「古墳祭」を行っているそうです。
所在地:交野市東倉治3-1-1(関西電力枚方変電所内)
JR片町線「津田」駅から徒歩約10分
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2010-01-11(Mon)

鼻摺古墳

茨木市にある古墳と言えば大田茶臼山古墳(継体天皇陵)をすぐに思い浮かべる人が多いが、鼻摺古墳という古墳があることを知っている人は少ない。
この古墳は古くから地域の人に深い関心を持たれ昭和35年5月から約40日発掘調査が行われた。その結果東西南北の四方に濠をもつ方形の古墳で墳丘の1辺の長さは約33m高さ約5.5m濠の幅は南側で約12m北東西側は約7m深さは約1.4mである。以前に大規模な盗掘があったらしく調査時には石室や副葬品はなく、わずかに須恵器、瓦器片が出たのみであった。この地は古くは毛受野(もずの)と呼ばれ、仁徳・履中・反正の3天皇稜と関係があるのではないかといわれている。出土した須恵器からみると、古墳の築造年代は6世紀から7世紀にかけてのものと考えられる。
所在地:茨木市耳原3丁目
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2010-01-08(Fri)

今年初めて買ったものは?

今年初めて買ったものはおみくじです。

2010-01-07(Thu)

UCCコーヒー博物館

神戸市中央区の神戸ポートアイランドにUCCコーヒー博物館という博物館があるのをご存知ですか。この博物館は日本で唯一のコーヒーをテーマにした博物館です。
1981年に開催された神戸ポートアイランド博覧会にUCC上島珈琲が出展したコーヒーカップを模した外観のパビリオンUCCコーヒー館をルーツとする施設で、博覧会閉幕後に名称を現在のUCCコーヒー博物館として営業開始した。1986年からの大改装によりコーヒー文化発祥のイスラムのモスクを模した外観に変更され、コーヒー学の確立とコーヒー文化の普及を目的に掲げて1987年10月1日にリニューアルオープンした。なお、この10月1日は「コーヒーの日」にあたる。
コーヒーを起源、栽培、流通、加工、文化、情報の6つのテーマに分け、わかりやすく展示している。またコーヒーショップではここでしか味わえない珍しいコーヒーを提供している。月に一度、博物館主催のコーヒーセミナーを開講しており、美味しいコーヒーの淹れ方などを学ぶことが出来る。
所在地:〒650-0046 兵庫県神戸市中央区港島中町6-6-2
電話:078-302-8880
事業主体 UCC上島珈琲株式会社

2010-01-06(Wed)

読書というわけではないのですが

読書というわけではないのですが、ホリエモンの書いた本が出版されていたので紹介しておきます。




2010-01-06(Wed)

今月の読書

今月の読書ということで紹介する本は「本当に頭がよくなる1分間勉強法」です。この本は昨日会社帰りに本屋さんで立ち読みしてためになりそうな気がしたので購入しました。

僕は毎年年明けに「1年間に100冊の本を読もう(買う買わないは別として)」という目標を立てているのですが、達成できていませんでした。この本を読んでみて今年は達成できそうです。




2010-01-06(Wed)

旧芥川宿と芥川1里塚

旧芥川宿と芥川1里塚は西国街道にある史跡である。
この宿は12世紀頃すでに成立していたが本格的に整備されたのは江戸時代に入ってからである(17世紀はじめ)。参勤交代のための本陣や伝馬(公用の荷馬)、旅籠等が置かれ、享保19年(1734)に描かれた芥川宿絵図では、整然とした家並みや寺院、東に1里塚も見える。
19世紀前半、(天保期)には、旅籠33軒、家数も253を数え大いに賑わい、幕末の文久3年(1863)8月には、政変に敗れて長州に逃れる途中の三条実美ら7卿も、この芥川宿に泊まっている。
しかし、時の流れと共に宿場町の面影は姿を消し、わずかに残る格子窓の家に往時がしのばれる。街道の両側にあった1里塚も東側だけが残り、昭和16年(1941)に5月、府の史跡に指定されている。

所在地:高槻市芥川3丁目
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2010-01-04(Mon)

瀬川宿本陣跡

箕面市に西国街道沿いの本陣があったことをご存知ですか。江戸時代の瀬川と半町は西国街道筋の駅所村でした。公用の人と馬、荷物を継立てる立会い(共同)駅と、参勤交代の西国大名の泊まる本陣、庶民の旅宿もあった宿場でした。寛永年間(1624~1643)頃に、瀬川の宿駅が整備され、宝暦年間(1751~1763)には、半町も瀬川本陣と同様の旅舎を作り上げ、半町本陣を名乗るようになりました。
明治13年(1880)駅所は廃止されましたが、半町本陣の建物の一部は現存し、古文書や宿札等、貴重な資料が数多く伝え残されています。昔は建物が残っていたらしいが、今はこの看板があるのみです。
所在地:箕面市瀬川2丁目(箕面自動車教習所の横)
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2010-01-01(Fri)

あけましておめでとうございます

あけましておめでとうございます。今年も1年よろしくお願いします。
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かずぼんです。大阪並びに近畿一円の口コミ情報を提供していきたいと思います。

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