2012-08-03(Fri)

古堤街道

古堤街道は、大阪府大阪市と奈良県生駒市を生駒山北側の山越えで結んでいる街道。 経由地名から「中垣内越」「竜間越」とも呼ばれる。阪奈道路の前身である。
○概要
この道がいつ頃整備されたかは定かでないが、大阪と奈良を結ぶ主要街道のひとつであり、大和国北部と大坂を結ぶ「大和街道」の一つとされた。 近世以前、河内国に深野池・新開池という2つの大きな池が存在していたころは京橋から東へ、新開池の北側のほとりを通り、各堂浜(住道浜)から船で深野池の東岸へ渡った。このあたりまでは大坂からの野崎参りの参拝道としても機能した。 1704年の大和川付け替え以降は大きな池はなくなり、京橋から住道までは寝屋川右岸に沿い、現在のJR住道駅前で寝屋川を橋で渡り、中垣内から竜間方面へ山を越えた。明治時代になり、「古堤街道」と正式に命名され、それ以降地元有志らにより、悪路であった山越え区間を中心に改修がたびたびなされた。なお、本街道の山越え道そのものは現在は府道701号中垣内南田原線に指定されており、阪奈道路は本街道の交通量が増大したことによる抜本的対策として建設され、1958年に開通した。JR住道駅近く、本町商店街の東外れなど数カ所に「古堤街道」と記された明治期の道路標が現存する。

○経由地
※西から東へ記載。
・大阪市
京橋
JR京橋駅ダイエー京橋店北側
蒲生・今福(三郷橋・鯰江川閘門跡)現・三郷橋稲荷付近
古堤橋・寝屋川分流水門
放出大橋 (放出街道交点)
徳庵橋北詰 (枝切街道交点)
万代橋北詰
・東大阪市

・大東市
JR住道駅 (住道駅前大橋で寝屋川を渡る)
住道新橋南詰 (河内街道交点)
大阪外環状線交差点 (大阪産業大学・大阪桐蔭高等学校前信号の一つ南の信号)
東高野街道交点
阪奈道路 (生駒登山口まで沿う)
・四條畷市
住吉神社
・生駒市
国道168号交点 (出店交差点・南田原バイパス中交差点の一つ北の辻)

スポンサーサイト

2010-08-14(Sat)

高野山に先日行ってきました。

8月9日に高野山に行ってきました。大阪に住んでいながら行ったのは今回が初めてです。
高野山は、和歌山県伊都郡高野町にある標高約1,000m前後の山々の総称。平安時代の弘仁10年(819年)頃より弘法大師空海が修行の場として開いた高野山真言宗、ひいては比叡山と並び日本仏教における聖地である。現在は「壇上伽藍」と呼ばれる根本道場を中心とする宗教都市を形成している。山内の寺院数は高野山真言宗総本山金剛峯寺(山号は高野山)をはじめ117ヶ寺に及び、その約半数が宿坊を兼ねている。平成16年(2004年)7月7日、高野山町石道と山内の6つの建造物が熊野、吉野・大峯と共に『紀伊山地の霊場と参詣道』としてユネスコの世界文化遺産に登録された。
地理
地名としての「高野山」とは、八葉の峰(今来峰・宝珠峰・鉢伏山・弁天岳・姑射山・転軸山・楊柳山・摩尼山)と呼ばれる峰々に囲まれた盆地状の平地の地域を指す(行政上の字名としての「高野山」もおおよそこれと同じ地域である)。8つの峰々に囲まれているその地形は『蓮の花が開いたような』と形容されており、仏教の聖地としては大変良い場所であるとされている。転軸山・楊柳山・摩尼山の三山を高野三山という。なお、高野山という名称の山は無い。
○主な施設・寺院
・壇上伽藍(壇場伽藍)
空海が曼荼羅の思想に基づいて創建した密教伽藍の総称であり、高野山の二大聖地の一つである(ほかの一つは奥の院)。金堂は高野山全体の総本堂で高野山での主な宗教行事が執り行なわれる。ほかに大塔、御影堂、不動堂などが境内に立ち並び、不動堂は世界遺産に登録されている。また、弘法大師伝説のひとつである飛行三鈷杵がかかっていたとされる「三鈷の松」や、高野四郎(俗称)と呼ばれる大鐘楼も伽藍に存する。
J0010133.jpg

J0010136.jpg

J0010137.jpg

・奥の院
弘法大師の御廟と灯籠堂がある(世界遺産)。参道には、皇室、公家、大名などの墓が多数並び、その総数は正確には把握できないものの、20万基以上はあると言われている。戦国大名の6割以上の墓所がある。奥の院の入り口は一の橋と中の橋の2箇所があるが、正式には一の橋から参拝する。一の橋から御廟までは約2kmの道のりとなっている。その途上には「みろく石」などの七不思議と呼ばれる場所がある。
J0010059_20100816183227.jpg

J0010060_20100816183227.jpg

J0010061_20100816183226.jpg

J0010062_20100816183225.jpg

J0010063_20100816183225.jpg

J0010065_20100816183418.jpg

J0010068_20100816183417.jpg

J0010069_20100816183416.jpg

J0010083_20100816183416.jpg


金剛峯寺
高野山真言宗の総本山で座主の住寺(世界遺産)。金剛峯寺は元は高野山全体の称だが、現在金剛峯寺と呼ばれるのは明治2年(1869年)に2つの寺院が合併したもの。もと青巖寺(剃髪寺)と呼ばれた寺院は文禄2年(1593年)、豊臣秀吉の建立、文久3年(1863年)、再建。歴代天皇の位牌や高野山真言宗管長の位牌をまつっている。大主殿、別殿、新別殿と分かれており、別殿では観光客に湯茶の施しがある。襖に柳鷺図のある柳の間は豊臣秀次の自刃の間。屋根の上に置かれた防火用の水桶は、かつては高野山全域で見られたが今も置かれているのはここのみ。また、金剛峯寺境内にある「蟠龍庭」(2,340m2)は日本最大の石庭。
・大門
高野山全体の総門。1705年再建。国の重要文化財と世界遺産に指定されている。
J0010140.jpg

J0010141.jpg

J0010143_20100816183531.jpg

・苅萱堂
苅萱道心と石童丸の哀話の舞台として知られる。
J0010109.jpg

・徳川家霊台
寛永20年(1643年)、徳川家光の建立。家康と秀忠の霊廟がある。世界遺産に登録されている。
J0010145.jpg
日光東照宮に似てます。

・女人堂
女人禁制の時代は女性はここまでしか入れなかったとされている。
J0010149.jpg

J0010148_20100816183844.jpg

J0010150_20100816183843.jpg

J0010151_20100816183842.jpg

J0010152_20100816183841.jpg

・金剛三昧院
建暦元年(1211年)、北条政子の発願による建立。源頼朝と実朝の菩提を弔うための多宝塔(国宝・世界遺産)がある。
高野山霊宝館
高野山上にある国宝、重要文化財等の保存・展示が行われており、定期的にテーマを絞った展示会が開催される。なお、現在の日本の国宝の2%は高野山上にある(1073件中、23件)。大正10年(1921年)、開設。

・根本大塔
J0010134.jpg

2010-06-24(Thu)

石舞台古墳

写真を整理してたら数年前に旅行した時の写真が出てきたので写真UPします。旅行に行ったのは平成18年5月(ゴールデンウィーク期間中)です。
石舞台古墳は、奈良県明日香村にある古墳時代後期の古墳。昭和27年(1952年)3月29日、国特別史跡に指定される。伝承であるが、別称を蘇我馬子桃源墓という。
○概要
古くから、巨石(花崗岩)で作られた玄室が露出しており、その形状から石舞台と呼ばれていた。玄室は、長さ約7.7メートル、幅約3.5メートル、高さ約4.7メートル、羨道は長さ約11メートル、幅2.5メートルの規模を有する。また、石室内部には排水施設がある。約30の石が積まれ、その総重量は2,300トンに達すると推定されている。石は古墳のかたわらを流れる冬野川の上流約3キロメートル、多武峰のふもとから運ばれた。昼間は公開されており、玄室内に入ることが可能である。封土(盛土)の上部が剥がされているため、その墳形は明確ではなく、2段積の方墳とも上円下方墳とも、あるいは、下方八角墳とも推測されている。また、一辺51メートルの方形基壇の周囲に貼石された空濠をめぐらし、さらに外提(南北約83メートル、東西81メートル)をめぐらした壮大な方形墳であるという。蘇我馬子の墓とされてきたことから、封土が剥がされ、墓が暴かれたのは、蘇我氏に対する懲罰ではなかったかとする説もある。外提の北西隅の外には刳坂(くりぬき)石棺を納めた横穴式石室があり、発見当初は陪塚であろうと推測されていた。しかしその後の調査で西側にも7基の横穴式石室が見つかり、いずれも石室内が整地されていたことなどから、石舞台古墳の築造にあたっては、その周辺にあった古墳を削平し、土などを移したものと考えられている。1933年(昭和8年)と1935年(昭和10年)に京都帝国大学(当時)の浜田耕作らが中心となり、発掘調査が行われた。しかし、すでにほとんどの埋葬品が盗掘にあった後であり、石棺の欠片等が発見されるに留まった。1954年(昭和29年)から1959年(昭和33年)にかけて古墳の復元整備事業が行われ、この時には外側の堀を掘るために上を通っていた県道が迂回させられたという逸話がある。被葬者は蘇我馬子であったとする説が有力である。『日本書紀』の推古天皇三十四年(626年)五月の条に「大臣薨せぬ。仍りて桃原墓に葬る」とあり、大臣は、蘇我馬子を指している。ただし、異説があり、奈良大学の水野正好は、石の種類、築造年代などから蘇我稲目説を唱えている。

○名称
石舞台という以外に地元では「石太屋」「石蓋」などの名前で呼ばれていた。「狐が女の姿に化けて古墳の上で踊ったことから石舞台と名付けられた」という伝説については、古墳のすぐそばで生まれ育った網干善教は、そのような話を自分は聞いたことがなく近年に創作された話であろう、としている。
○所在地
奈良県高市郡明日香村島庄
写真022

写真023

写真024

写真025

写真026

写真027

写真028

写真031



2010-06-24(Thu)

亀石

写真を整理してたら数年前に旅行した時の写真が出てきたので写真UPします。旅行に行ったのは平成18年5月(ゴールデンウィーク期間中)です。
奈良県明日香村川原にある亀の形をした遺構。長さ3.6メートル、幅2.1メートル、高さ1.8メートルの巨大な花崗岩に亀に似た彫刻が彫られていることからこの名前で呼ばれている。ユーモラスな顔つきから明日香村観光のシンボルともなっている。
○建造時期・目的
いつ、なんの目的で作られたかは謎で、「川原寺の所領の四隅を示す石標」「猿石を含めた古墳に関連する遺物」「斉明天皇の時代にグリフィン像を造ろうとしたが加工途中で放棄されたもの」など、いくつかの説が出されているものの、結論は出ていない。
○形状
亀石と呼ばれているが、顔が三角形であることや目が上に飛び出しているなど、亀というよりはカエルの特徴をとらえていると見る人もいる。上部が自然石のままで下部のみが加工されていることから、現在の下面が本来の上面で実は上下逆であったという説も奈良国立文化財研究所の報告書で出されてはいるが、有力視はされていない。下部には石矢の跡が見られるが、建造当初からあったものなのか酒船石のように後世になって石を割ろうとした跡なのかも分かっていない。もし当初から残された跡だとすれば亀石は未完成品であるとの証拠にもなり、後世に割られたとしたら本来は現在よりもかなり高さのある石だった可能性がある。
○伝説
言い伝えによれば、奈良盆地一帯が湖であった頃、対岸の当麻のヘビと川原のナマズの争いの結果、当麻に水を吸い取られ、川原あたりは干上がってしまい、湖の亀はみんな死んでしまった。亀を哀れに思った村人たちは、「亀石」を造って亀の供養をしたという。亀石は、以前は北を向き、次に東を向いたと言う。そして、今は南西を向いているが、西に向き、当麻のほうを睨みつけると、奈良盆地は一円泥の海と化す、と伝えられている。
所在地:奈良県高市郡明日香村
近鉄飛鳥駅から徒歩20分
写真011

写真012



プロフィール

kazubonka

Author:kazubonka
かずぼんです。大阪並びに近畿一円の口コミ情報を提供していきたいと思います。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カレンダー
04 | 2017/05 | 06
- 1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31 - - -
カテゴリ
メモ














































【高額報酬!!】有名女優が多数愛用している事でも知られている光美容機。世界中のセレブ御用達の一品。高額商品にも関わらず売れ続けています。ご利用者からご満足のお便りも大変多いです。定価472,500円











BTOパソコンショップ 『フレッシュフィールド』 オールカスタマイズ可能なオリジナルパソコン好評発売中!





























スルガ銀行ANA支店
銀行取引でANAマイルが貯まる(100×60)バナー











<

「サイパン旅行ナビ」でオプショナルツアーを予約!



ティッカー

グアム

ハワイ旅行

ムームードメイン

カスタムバイク買取













検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

ブロとも一覧

続・竹林の愚人

思いつくまま

oobuta日記
QRコード
QRコード
FC2カウンター
平成20年8月26日からのアクセス数です。
FC2ブログランキング

FC2Blog Ranking

FC2アフィリエイト
カウンター アフィリエイト・SEO対策
天気予報

-天気予報コム- -FC2-
スポンサードリンク

FC2Ad

Powered by FC2 Blog