2017-09-20(Wed)

荘厳浄土寺

荘厳浄土寺は、大阪府大阪市住吉区にある、真言律宗の寺院。山号は朝日山。
○由緒
創建は天慶年間(930年~946年)頃と考えられている。応徳年間に、白河天皇の勅願寺となり、荘厳浄土寺の寺号を賜る。現在の堂は、天和2年(1682年)の再建。住吉四天王寺とも称せられた。後村上天皇の正平年間に、住吉に御畢中、御父後醍醐天皇の、御霊を御信修された聖蹟であると、山門に向かって右側の石碑の裏には書いてある。山門は明治時代になって廃寺となった住吉大社の神宮寺である新羅寺から移築したものである。

○所在地
大阪府大阪市住吉区帝塚山東五丁目11-14

○交通
南海高野線住吉東駅

○文化財
荘厳浄土寺境内(大阪府指定顕彰史跡)
不動明王立像(大阪府有形文化財)
愛染明王坐像(大阪府有形文化財)
ほか。

○その他
単に浄土寺と呼ばれる場合もある。近年、当寺の境内西側で発掘調査が行われた。

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2017-09-20(Wed)

保利神社

保利神社は大阪市住吉区長居東に鎮座する神社です。別称は「長居の宮」と呼ばれています。この神社の位置は、大阪市立長居公園の市立博物館の真南にあたり、道が曲がった路地に囲まれた場所にあります。由緒書きによると、「神社の創建の時代は不詳である。里伝に依れば足利時代に周防守某なる者が本地に城を築いた時、城の守護神として勧請されたといわれている。従前、速素盞嗚尊はやすさのをのみことを祀り社名を牛頭天王社と称していたが、明治五年村社に列し素盞嗚尊神社と改称された。明治四十年に大字前堀村の吉山神社、大巳貴命を合祀して祇園神社と改め、明治四十四年さらに邑名に依り、万葉仮名で書記した保利神社に改められ現在に至っている。」 境内には 村のあちこちにあった力石が集められて置かれています。また、末社の保住稲荷社は、歯痛平癒の霊験社だそうです。
住所:大阪府大阪市住吉区長居東1丁目14-17

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2017-09-20(Wed)

神須牟地神社

神須牟地神社は、大阪市住吉区に位置する神社。神須牟地社とも呼ばれる。
○由緒
御祭神は神産霊大神(カミムスビノオオカミ)、天日鷲命(アメノヒワシノミコト)、少名彦命(スクナヒコノミコト)。
由緒書には以下の通りある。
延喜式内の古社であって三の宮と称され遠く二千年昔の御創建である

住吉大社が摂津国一の宮と呼ばれたのに対し、当社が三の宮とされた。江戸時代、大名が参勤交代の途中で住吉大社に参拝する際、当社で旅装から定められた装束に着替えてから参拝したと言われている。住吉大社の神官が当社の神職を兼任する事が多かったが、第二次世界大戦後、敗戦の混乱で存亡の危機に立たされ、八尾市の古社の神官が当社の土地を無償で譲り受け、初代宮司となる。当社の由緒書は初代の息子の2代目宮司が調査編集したものである。

○本社
古来酒造将また医薬の祖神として信仰厚く、文武両道の守護神として御神徳顕著であった。本社殿は慶長年間兵火にかかったが、豊臣の浪人多賀谷氏ほか4人の協力で元和4年8月21日再建された[6]。 元文元年9月徳川幕府は本社および多米神社が廃れ滅びそうになったのを憂い、幕吏菅廣房(すがのひろふさ)(山口屋伊兵衛)に「神須牟地社」・「多米社」と彫った石碑2基をそれぞれに建立させた。

・境外末社
多米神社は延喜式内の古社で別名を「苗見神社」「種貸神社」ともいい崇敬された。 御祭神は宇賀魂命(ウガノミタマノミコト)、神稚魂神(カムワカタマノカミ)、保食神(ホグイノカミ)。

・境内末社
農神社は農耕の神として農民に尊敬された。 御祭神は大己貴命(オオナムチノミコト)。

・標石
江戸時代中頃の儒学者、並河誠所の考証に基づき、所在不明の式内社に比定された神社のうち20社に設置された標石のひとつである。式内社は、「延喜式神名帳」(巻9・10)に記載された国家祭祀の対象神社であり、多くは古代国家の解体と所在が分からなくなっていった。江戸時代にこれらの式内社を解明、顕彰しようとする気運が高揚した。並河誠所は享保14年(1729年)から享保20年(1735年)の6年間かけて『五畿内志』を編纂し、その過程で畿内の所在の紛れた全式内社を当時存在していた神社に比定し、それを顕彰しようとしたが、費用面から全社を対象とした顕彰は難しく、ひとまず摂津国内の20社に標石の建立し、顕彰を行った。建立は、元文元年(1736年)から翌年にかけ、徳川幕府の支持を受け、摂津国東成郡赤川村(現在の旭区赤川に当る)の庄屋で、誠所の指示を受けた弟子久保重宜によって遂行された。この時建立された標石は全て現存し、うち4基が大阪市内にある。誠所の比定以前は三宮という別の社号で呼ばれていた。誠所の考証には、現在からみれば不十分な点も多く、必ずしも正しいとは限らないが、これらの標石は、近世における考証主義・尚古主義の進展を示す資料として重要である。

○例祭日
夏大祭-7月21日
秋大祭-10月21日
月例祭-毎月21日

○所在地
大阪市住吉区長居西2丁目-1-4

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2017-09-20(Wed)

住吉行宮跡

後村上天皇が1352(正平7・文和元)年、大和賀名生(現、奈良県五條市)から住吉へ行幸した18日と、その後河内観音寺(河内長野市)を出て、1368(正平23)年に没するまで、ここが行宮(行幸時の仮宮)となった。そして、次の長慶天皇もこの地で即位し、翌年の春までここを行宮とした。遺跡は5段の医師団を供え、右手には大阪府が立てた史跡住吉行宮跡の碑がある。

所在地:大阪府大阪市住吉区墨江2-7

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2017-09-20(Wed)

浅沢神社

住吉大社の境外末社で市杵島(いちきしま)姫命ほかを祭る。奈良時代からこの付近は浅沢小野とよばれ、池沼も多く細江川が流れて「かきつばた」の名所でもあった。その様子は万葉集にもよまれている。現在、社の周囲に小さな堀をめぐらせ、名残りの「かきつばた」が植えられている。
所在地:大阪府大阪市住吉区上住吉二丁目11
最寄駅:阪堺電鉄「細井川」下車東約200m

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2017-09-20(Wed)

我孫子鋳物師ゆかりの地

中世後期には、当地に鋳物師集団が居住し活躍していた。最近の発掘調査によると、14~15世紀の銅・鉄製品鋳造用の炉や鋳型が発掘されている。平安時代末以降、河内丹南には有力鋳物師集団の存在が知られている。当地の鋳物師はこの河内丹南の集団を源流とするかどうか不明であるが、室町時代宝徳3年(1451)の河内鋳物師に関係する文書には、我孫子・苅田・庭井などの鋳物師名のあることから、密接なつながりがうかがえる。天文年間(1532~1555)には織田信長の庇護もあり、河内鋳物師集団をしのぐ勢力をもっていた。
所在地:大阪府大阪市住吉区山之内元町3山之内元町公園
最寄駅:JR「杉本町」下車北約400m


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2017-09-20(Wed)

一休禅師牀菜庵跡

一休和尚(1394~1481)が、晩年仮棲したところである。一休は後小松天皇の落胤と伝え、天衣無縫・反骨で終始し京都・奈良・堺など移り住んだ。文明元年(1469)奈良から堺に来て、住吉に居住していた。翌2年、堺の豪商尾和宗臨(大徳寺伽藍再興に尽力した)が、ここに一庵を設けて一休を招請した。一休はここを雲門庵と体し、弟子ともとも移り住み、数年後この空き地の一角に庵をつくり牀菜庵と号した。一休は文明10年(1478)には京都田辺酬恩庵へと去った。庵跡は明治初年まで、それらしき門跡や竹やぶが残っていたという。
所在地:大阪府大阪市住吉区上住吉二丁目6上住吉公園
最寄駅:南海電鉄「住吉東」下車南約300m

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2017-09-20(Wed)

一運寺

住吉大社の摂社・大海神社の東側に隣接する一運寺(浄土宗) に大石内蔵助・主税父子と寺坂吉右衛門の墓がある。リーダの大石内蔵助良雄(よしたか)は、代々家老職を務める家柄で、1500石の扶持を得ていた。討ち入りの主役であり、映画やテレビでは、恰幅のよい役者がそれを演ずるが、事実は痩せっぽちの小男であったらしい。良雄は8歳の頃、朱子学の観念論化を批判して幕府からにらまれ、赤穂に配流された兵学者山鹿素行から、その教えを受け、また、16~7歳頃には、京で伊藤仁斎の堀川塾に学び、武芸は東軍流の剣豪奥村無我より剣術免許皆伝を授かっている。太平の世で、事件が起きなければ、平々凡々の一生を過ごしたと思われるが、事件発生後は城明け渡しから、討ち入りまでまで、性格や意見も違う同志を統率し、目的達成を果たしたリーダーシップ振りには感嘆させられる。45歳で切腹。内蔵助の長男である主税良金(よしかね)は 部屋住であったため、当初内蔵助は義盟に加えるつもりは無かったが、父と行動を共にしたいという本人の意志が強かったため、元服をさせ、名前も幼名の松之丞から主税と改めた。同志の中では最年少で、切腹したときは僅か16歳であった。寺坂吉右衛門信行は討ち入り同士の中で、唯一を免れた義士であるがその経緯には諸説あるようだ。身分は同志の1人吉田忠左衛門の足軽で、討ち入り本懐を遂げた後、泉岳寺に向かう途中、寺には入らず立ち去っている。「逃亡説」を始め、大石内蔵助の意を受けた「生証人説」等々、義士研究家の間では論議が盛んであるが、吉右衛門自身は広島浅野本家に報告後、忠左衛門の娘婿である、姫路藩士伊藤十郎太夫宅に身を寄せ、伊藤十郎太夫の転封にも、越後-三河刈谷-下総古賀とつき従い、忠実に働いている。後、旗本山内主膳家にも仕え、83歳で没している。(討ち入り当時は39歳であった)

所在地:大阪府大阪市住吉区住吉2-6-23
最寄駅:阪堺電軌「住吉」下車東へ、「大海神社」の斜め前

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2017-09-20(Wed)

依網池跡

この依網池は約1平方キロメートルにも及ぶ大池で、長く灌漑に利用されていた。しかし宝永元年(1704)大和川の付け替えで、池は大和川により分断され縮小し、現在では全く姿を消している。
所在地:大阪府大阪市住吉区庭井二丁目18
交通:市バス「よさみ神社前」下車南約200m

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2017-09-13(Wed)

天野屋利兵衛の碑

碑は昭和14(1939)年に建立。横幅は4m、高さは2m近くもある。天野屋利兵衛の屋敷が現地付近にあったという伝承に基づいて建てられたといわれる。利兵衛は、赤穂藩の家老大石良雄から吉良邸討ち入りの武具の調達を頼まれるが、武具を作らせた人間の密告により捕らえられる。依頼書の名を白状せよと奉行所で拷問を受けるが、頑として口を割らない。この時に利兵衛が言ったという「天野屋利兵衛は男でござる」の名せりふは「忠臣蔵」でも見せ場の1つにになっている。利兵衛の義心に奉行は資材を減じ、浪速の地追放の判決を下す。こういったエピソードから碑には「義侠」の文字が刻まれている。元禄時代に、天野屋利兵衛が存在したのは確かだが、実在は不明である。

所在地:大阪府大阪市中央区本町橋3番

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2017-09-13(Wed)

泊園書院跡

儒学者藤沢東がい(ふじさわとうがい)が文政8年(1825)、大阪に出て泊園書院を設立。当時、民衆に漢学を教えた私塾であった。東がいの別号が「泊園」。「泊園」は私利にとらわれないという意味である。東がいは6歳でたいていの漢字を読んだ秀才で、七絃琴の名手。風雅を愛し、泊園の名のとおりの生涯を送ったという。この精神は南岳、黄鵠、黄坡と4代140年間守られた。現在石碑が立つ場所に塾が移されたのは南岳の頃で、明治9年(1876)。
南岳は一時、途絶えていた泊園書院を明治6年(1873)に再興。やがて最盛期を迎え、塾生は100名に達したという。江戸から続いた泊園書院は、昭和24年(1949)、黄坡の死によって幕を閉じた。その間に蓄積された2万冊余の蔵書は、現在、関西大学に泊園文庫として保存されている。また一族から昭和の流行作家、藤沢桓夫や石濱桓夫が出ている。

所在地:大阪府大阪市中央区淡路町1-5

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2017-09-13(Wed)

法妙寺

法妙寺(山号は本覚山)は近松寺とも通称し、寺伝によると1562年(永禄5年)の創建と伝わる寺院で、元は大阪城東辺にあったが、大阪夏・冬の陣後の復興整理のため、谷町筋8丁目寺町(現中央区谷町8丁目)に移転させられ、1967年(昭和42年)谷町筋の拡張のため、現在地に移転するまで在った。お寺の方のお話では、谷町に在った法妙寺は近松門左衛門の妻の実家が檀家だった関係で、近松門左衛門の墓が建てられていた。移転に際して、この墓も移転すれば、国史跡の指定が解除になるので、大阪市の要請もあり移転で出来なかったが、その他の近松の一族の墓や過去帳などは現在地に移転した。過去帳などは非公開であるが、数年前に大学の先生が研究のためにと要請があり、開示したことはあるとのことである。近松門左衛門の墓は移転できなかったが、谷町にある墓と同じような墓石を建て供養墓としている。

所在地:〒574-0014大阪府大東市寺川4-8-1

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2017-09-13(Wed)

大阪府立貿易専門学校

大阪府立貿易専門学校は、かつて大阪府大阪市にあった、大阪府立の専修学校。2年制の専門課程を設置し、貿易実務や国際ビジネスについて学ぶことを目的としていた。英語表記は、Osaka College Of Foreign TradeでOCFTと略されていた。

○概要
1948年に1年制の各種学校「大阪高等貿易講習所」として、大阪市東区橋詰町(現在の大阪市中央区本町橋)で創立したことが、学校の始まりとなっている。その後2年制の専修学校へと改編された。公立の貿易実務分野の専修学校は、当時日本で唯一となっていた。しかし大阪府の財政難に伴い、2001年に廃校の方針が示された。学生や関係者らによる廃校反対運動も起こったが、2003年度からの新規学生募集を停止し、最後の卒業生を出した2004年3月に廃校された。

○沿革
1948年5月1日-大阪高等貿易講習所として、大阪市東区橋詰町で創立。1年制の各種学校として発足。
1967年4月1日-大阪府立貿易専門学校と改称。2年制の専門学校となる。
1976年4月1日-学校教育法の改正により、専門課程を設置する2年制の専修学校になる。
1985年4月1日-大阪市天王寺区夕陽丘町へ移転。
1995年4月1日-大阪市住吉区帝塚山東2丁目へ移転。
1998年12月25日-住吉区帝塚山東2丁目、最終所在地の校舎に移転。
2001年-大阪府議会9月議会で廃校の方針が決定。
2003年-この年から新入生の募集を停止。
2004年-廃校。

○最終所在地
大阪市住吉区帝塚山東2丁目1番41号
最終所在地の校地は、旧制大阪府女子専門学校→新制大阪女子大学(1924年-1976年9月)、大阪府立看護短期大学(1978年-1994年)、 大阪府警住吉警察署仮庁舎(1994年-1998年)としても使用されてきた。跡地は2000年代後半まで廃校当時のまま残っていたが、2010年には旧校舎は取り壊され更地になった。2011年から跡地に老人ホームが建設され、2012年7月に竣工した。


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2017-09-13(Wed)

若宮商工稲荷神社

大阪商工会議所ビル(大阪市中央区本町橋2-8)南隣りにある若宮商工稲荷神社は、 大阪商工会議所初代会頭の五代友厚が大阪の商工業発展を祈念して奉祀した「商工稲荷神社」が、 大阪商工会議所の移転に伴って堂島から現在の内本町へ移されることとなり、 昭和40(1965)年9月に移転先である内本町の建設用地内にあった「若宮稲荷神社」の ご神体と合祀され、新たに建立されたものです。以来、現在に至るまで大阪商工会議所歴代の会頭をはじめ多数の方々がご参拝されており、 地元商工業関係者の方々はもとより、地域住民のみなさんにも鎮守として親しまれ、 広くご参拝をいただいています。

所在地:大阪市中央区本町橋2-8

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2017-09-13(Wed)

英照皇太后・昭憲皇太后行啓の所

英照皇太后は孝明天皇の皇后、昭憲皇太后は明治天皇の皇后である。皇太后らが来られた記念碑。裏側には「昭和15年4月大阪府」と刻まれている。

所在地:大阪府大阪市中央区本町橋2番

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2017-08-29(Tue)

箕面街道の道標

「右豊中々梅花女学校道」「左箕面街道桜井谷村」と刻まれている。箕面街道は大阪方面から能勢街道を経由して豊中から勝尾寺へ向かう道。

所在地:大阪府豊中市本町

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2017-08-29(Tue)

法雲寺・法雲寺スポーツ公園

異色の組み合わせに目を奪われるこの寺は慶長18(1613)年に創建された古寺。なんと無料で利用できるバスケットコートが隣接している。町おこしに力を入れてる住職の愛称は「イベント坊主」で、様々な催しを実施。

バスケットコートは9:00~18:00(18歳以上は15:00~。要問合せ)06-6852-1092
所在地:大阪府豊中市本町3-10-5

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2017-08-29(Tue)

長寿寺

正徳5(1715)年に建立。境内の枝垂れ桜は3月下旬ころに見頃を迎え、ライトアップが実施される。

電話:06-6852-4341
所在地:大阪府豊中市蛍池中町2-7-10

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2017-08-29(Tue)

鯛屋貞柳墓所

南御堂前で手広く営む菓子商に生まれ(承応(じょうおう)3年、1654)鯛屋はその屋号。父もその弟も名の知られた俳人で、貞柳はその影響をうけて早くから狂歌に才能を示した。狂歌はそれまで俳諧師の余技にすぎなかったが、貞柳から後は職業的な狂歌師が輩出した。その後狂歌の主流は関東に移り、太田蜀山人(しょくさんじん)らが出て隆盛をきわめたが、貞柳はその源流として位置づけられる。晩年は生家が火災にあい没落し高津に隠棲したが、かえってわずらわしさから逃れられると喜ぶ様子もみられたという。享保(きょうほう)19年(1734)没、81歳。

所在地:大阪府大阪市天王寺区下寺町一丁目3-64光伝寺
最寄駅:地下鉄谷町線「四天王寺前夕陽丘」下車北西約250m

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2017-08-29(Tue)

正福寺

元亀元(1570)年に開基し、昭和16(1941)年にこの地に移転。本堂には珍しいステンドグラスがあります。昼と夜を表現した飛天が描かれている。

電話:072-762-0610
所在地:大阪府池田市石橋4丁目15?14

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2017-08-29(Tue)

圓満寺

天平元(729)年、行基が建立した金禅寺という大伽藍の1棟。幾度もの消失の後、現在の地に再建し、改修して延年山圓満寺となった。麻田藩の家臣が檀家だったそうです。

電話:06-6855-5518
所在地:大阪府豊中市蛍池東町1-13-12

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2017-08-29(Tue)

旧浮瀬亭跡

浮瀬亭は清水寺の北にあった料亭で、江戸時代の名所案内書『摂津名所図会』や『浪華の賑ひ』にも掲載されており、十返舎一九の『東海道中膝栗毛』にも登場している。松尾芭蕉のほか、与謝蕪村、太田南畝(蜀山人)、滝沢馬琴などの有名な文人たちが訪れている。芭蕉が訪れた頃は「晴々亭」と呼ばれていたが、「浮瀬亭」と呼ばれるようになったのは、あわび貝でつくった「浮ぶ瀬」という大盃(7合5勺も入る)をはじめ、種々の盃を秘蔵しており、これを飲み干した人は名誉として「暢酣帳(ちょうかんちょう)」に名前を記載したところから、その奇盃が有名になり、料亭の名前として呼ばれるようになった。この料亭は1887年(明治20年)頃売りに出され個人の別荘となったが、変遷を得て現在では大阪星光学園の構内の一部になっている。その後建物は無くなったが、1800年(寛政12年)大坂の俳人茅渟奇淵(ちぬのきえん)が建立した松尾芭蕉の句碑(松風碑)は残されており、学園では1982年(昭和57年)に、この「松風碑」を含め、浮瀬亭史跡を整備。併せ、「蕪村200年忌追善」行事として、蕪村の句碑を建立されている。これらの史跡は大阪星光学園に申し込めば拝観することが出来るが、訪問する際には授業の邪魔にならないためにもあらかじめ、電話等で予約をしておく必要がある。

所在地:大阪市天王寺区伶人町
最寄駅:地下鉄谷町線「四天王寺前」下車、南西出口を南へ150M


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2017-08-20(Sun)

伝王仁墓

大阪府枚方市藤阪にある王仁の墓所は、江戸時代の1731年(享保16年)に設立されたものである。設立までの経緯は次の通りである。藤坂村字御墓谷の山中に鬼(オニ)墓と呼ばれる2個の自然石があり、歯痛やおこりに霊験があると伝えられていた。この塚は、平安時代の坂上田村麿が蝦夷征伐によって、蝦夷の2人(アテルイ・モレ)を京都へ連行したが帰順しないので打ち首にして埋めたとの説もある。1616年(元和2年)、禁野村和田寺の道俊は『王仁墳廟来朝記』でオニ墓は王仁墓の訛ったものと主張した。1731年(享保16年)、京都の儒学者並河誠所が道俊説により、墓所中央の自然石を王仁の墓とし、領主・久貝因幡守に進言「博士王仁之墓」の碑を建立した。金英達は、『五畿内志』を編纂していた並河の功名心による歴史の捏造としている。1827年(文政10年)、枚方招提村の家村孫右衛門が王仁博士を顕彰するため、有栖川宮の筆になる「博士王仁墳」の碑を建立。明治時代になると王政復古のなかで、日本に帰化し天皇家に仕えた博士として王仁が顕彰されるようになり、1894年(明治27年)に墓域拡張工事が行われ、1899年(明治32年)には仁徳天皇1500年祭の付随して王仁墳墓祭典が行われた。昭和時代になると「内鮮一体」を標榜する朝鮮人皇民化教育政策に利用されるようになり、1927年、王仁神社奉賛会(副会長・内田良平)が結成、1930年に王仁神社建設の地鎮祭、昭和12年(1937年)になって北河内郡菅原村村長が大阪府に史跡指定を申請し、翌1938年(昭和13年)、大阪府が史跡13号に指定した。1940年、四宮憲章、井上哲次郎らによる王仁博士顕彰会が東京の上野公園に「博士王仁碑」を建立された。1942年には大阪府協和会が王仁神社の建設を決定したが戦争のため計画中断した。戦後は「日韓友好親善運動」に利用され、1984年以降、王仁祭が開催されるようになり、1985年には地元に「王仁塚の環境を守る会」が発足。1992年には大阪府と枚方市により墓域の整備がなされ、ハングルの通行案内板・休憩所(善隣友好館)・祈念碑などが建設された。

所在地:大阪府藤阪東町2

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2017-08-13(Sun)

呉服神社

呉服神社御縁起
御祭神は応神天皇37年(308年)の御請願により絹織物の織姫として呉の国王より遣わされました呉服どり(姉の織姫)をお祀り申しあげてございます。当時の豊島郡秦野村一帯は日本でも信州空谷と並び称されました。空の澄んでいた処で気候温暖、土質も桑の木に適合し夏ともなれば一面青々とした桑の葉波の海でございました。この様子をご覧になり大変感激なされ現神社の有る場所でお住まいになり、本邦初の、かいこ→まゆ→きいと染色→絹織物と一貫しておつくりあそばされた神様でございます。一方技芸の神様としての信仰も厚く芸術・映画・演劇等第一線で活躍されている宝図化歌劇・京都の舞妓さんやこれから技芸の道を歩む若い人達の参詣が絶えません。

呉服神社:池田市五月丘1丁目10


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2017-08-13(Sun)

穴織神社

呉服神社は姉の織姫(呉服どり)、穴織神社は妹の織姫(穴織どり)を祀っています。
穴織神社御縁起
御祭神は応神天皇37年(308年)の御請願により絹織物の織姫として呉の国王より遣わされました穴織どり(妹の織姫)をお祀り申しあげてございます。当時の豊島郡秦野村一帯は日本でも信州空谷と並び称されました。空の澄んでいた処で気候温暖、土質も桑の木に適合し夏ともなれば一面青々とした桑の葉波の海でございました。この様子をご覧になり大変感激なされ現神社の有る場所でお住まいになり、本邦初の、かいこ→まゆ→きいと染色→絹織物と一貫しておつくりあそばされた神様でございます。一方技芸の神様としての信仰も厚く芸術・映画・演劇等第一線で活躍されている宝図化歌劇・京都の舞妓さんやこれから技芸の道を歩む若い人達の参詣が絶えません。



穴識神社:池田市五月丘3丁目1

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2017-08-13(Sun)

渋谷中学校発祥の地

渋谷中学校は、1948年(昭和23年)に池田で2番目の新制中学校として開校しました。当時の校区は、秦野小学校校区と池田小学校校区の建石町、上池田町、城南町でした。 開校当初は、池田市立高等学校(昭和25年池田市立渋谷高等学校、現大阪府立渋谷高等学校)と同じ敷地に併置されていました。

渋谷中学校発祥の地:大阪府池田市五月丘4丁目1-1


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2017-08-13(Sun)

石橋村高札場跡

「高札」とは、立て札ともいい、江戸時代 法度、掟書、犯罪人の罪状などを記し、交通の多い市場、辻などに掲げらた板札をいう。その目的は一般の人たちに法令を徹底させるためのものでした。
旧石橋村の高札場跡
ここは、京都と山陽地方とを結ぶ「西国街道」、大阪と池田・能勢方面とを結ぶ「能勢街道」(江戸時代は「大阪道」あるいは「池田道」)が交わる場所です。かつて、多くの人々や物資が行き来したこの辻には、幕府や奉行所などから庶民に周知させる法令や禁令、生活の規範などを掲げた高札場 がありました。江戸時代の石橋村は麻田藩青木家(一万石)の領地になっていました。この時代の戸籍台帳である『宗門御改帳』などによると、元禄三年(690)に29軒1928人、幕末の文久元年(1861)には24軒104人の人々が暮らしていたようです。 江戸時代の村の様子はあまりわからないものの、次のことがうかがえる史料があります。嘉永6年(1853)の黒船(アメリカ艦隊)来航以降、幕府は初版に海岸の防備を強化するよう命じました。 同年七月、石橋村庄屋元二郎が江戸に行っていた同村の仁右衛門・徳次郎に宛てた手紙が残されており、そこには「異国船が来たと驚いている、幕府をはじめ諸藩の苦労がしのばれる。旱魃やほうき星が外国の仕業であると皆が評判している」といった内容がしたためられています。アメリカ、ロシアの相次ぐ来航という歴史を動かした幕末の動揺が、ここ石橋村にも及んでいたことがわかります。近代以降 明治22年(1889)の町村制の施行によって、石橋村は北豊島村の大字となりました。昭和10年(1935)、北豊島村は、秦野村、細河村、池田町と合併、昭和14年には市制が施行されて池田市になり、「石橋」は町名としてその名を今日に残しています。 平成22年4月池田市教育委員会


所在地:大阪府池田市石橋3丁目
石橋村高札場跡:阪急石橋駅の近くの踏切そば

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2017-06-05(Mon)

佐伯祐三生誕の地

大阪が生んた偉大な洋画家佐伯祐三は、明治31年(1898)光徳寺に生まれた。大正12年に東京美術学校(現東京芸術大学)を卒業し、大正13年に妻子を伴いフランスに渡り、ブラマンクやユトリロらの感化をうけながら、独自の画境をひらいた。そして数多くのパリ風景を描きつづけ、いったん帰国したが、再度フランスに渡り制作にはげみ、大きく飛躍した。しかし、病にたおれ、昭和3年わずか30歳で死去した。代表作に「ノートルダム寺院」「サンタニス寺院」「郵便配達夫」などがある。

所在地:大阪府大阪市北区中津二丁目5-4光徳寺
地下鉄御堂筋線「中津」下車北約200m

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2017-06-02(Fri)

塚口古墳群(猪名野古墳群)

猪名川の西岸、阪急塚口駅を中心とする一帯にあり、前方後円墳の池田山古墳御園古墳大塚山(天狗塚)古墳伊居太古墳・帆立貝式の御願塚古墳南清水古墳その他(岡院の石棺等)からなる。その分布は比較的散在した状態である。5世紀中葉以降、西摂平野の中期古墳は塚口と豊中市の桜塚の2地域に集中する。猪名川を挟んで東西に位置する両古墳群はともに5世紀後半を中心に形成されているが、桜塚古墳群が2~3系列の首長墓の集合と考えられるのに対し、塚口古墳群は1系列の首長墓のものとみられる違いがある。塚口地域は猪名部の中心地と考えられ、この渡来した集団の首長墓としてつくられたものであろう。猪名部は、木工関係の技術集団と考えられているが、大塚山古墳の副葬品に出土例の少ない鉄鋸〔てつのこ〕があることも注目される。当古墳群において、6世紀になって全長を次第に縮小しながらも、基本的に前方後円墳がつくられていったのは、有力な単一首長系列の墓であったためであろう。

2017-06-02(Fri)

池田山古墳

旧塚口字山廻(現塚口本町6丁目)にかつて存在した西南面する全長約71mの前方後円墳。出土遺物から4世紀後半の前期古墳と推定される。1920年代には周辺に20余基の古墳群が遺存していたという。当古墳は1912年(大正元)・1919年・1938年(昭和13)の3度にわたる土取り工事で完全に消滅した。断片的な記録からは、後円部中央の表土下2.5m付近に切り石を積んだ石槨〔せっかく〕をもつ竪穴式石槨墳と推定される。同時期の古墳例からすれば、石槨内に朱塗りの割竹形木棺を内蔵していたと考えられる。径19cmの画像鏡、径14.7cmの平縁式鏡、直刀、鉄鏃、埴輪などが出土したらしいが所在不明。現存する内行花文鏡片は推定径20cm、白銅製の後漢形式で、七弧文四葉座鈕であるとすれば発見例はきわめて少ない。土師器小壺1点も現存している。

所在地:兵庫県尼崎市塚口本町6丁目(消滅)

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