2017-11-19(Sun)

彌榮神社

旧記には、神祖素戔嗚命を文禄年間に熊野巫神社(旧出雲国意宇郡)より分霊奉還したのがはじまりとある。その当時は、牛頭天王社と呼ばれ、創立以来旧木野(この)村の鎮守として崇敬厚く宮座を設けて奉仕し、明治5年(1872年)村社に列せられ、社号もこの時に彌榮神社と改められた。明治43年(1910年)、氏子協議のうえ大字岡村(現在勝山北4丁目)の御館神社を合祀した。その御館神社は、生土神でいばらの神と呼ばれ、仁徳天皇の的殿の旧跡で、現在は彌榮神社の御旅所となっている。創立の由来が古事記に記載されるなど、古来より地域の集落の中心であったことが伺え、その歴史的・文化的な価値は高い。また、祭団体が存在し、地域活動が行われるなど、地域性がある。

所在地:大阪府大阪市生野区桃谷2丁目16番22号

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2017-11-19(Sun)

伝藤原家隆墓

藤原家隆(1158年~1237年)は、藤原時代末期の五代の天皇に仕えた有名な歌人で、79歳の時に官を辞して浄春寺の地に隠棲した。その翌年の春の彼岸に高台から西の海に落ちる夕日を見て、その荘厳さに心を打たれ直ぐに落髪して仏性と号し、その4月9日に消えるように一生を終えた。伝藤原家隆墓は、家隆の墓といわれ、その傍らには、御影石にこの歌が夕日とともに刻まれた歌碑がある。夕陽丘の地名は、この歌の「波の入日」からきている。夕陽丘の地名の由来である藤原家隆の歌碑があり、和歌に親しんでいる者にとっては重要なスポットである。市民の手によって維持保全されており、地域に親しまれている歴史・文化的資源である。

所在地:大阪府大阪市天王寺区夕陽丘町5番

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2017-11-13(Mon)

清寿院(大阪関帝廟)

正式には黄檗宗「白駒山清寿院」といいますが、中国との縁が深いので「南京寺」とも称されます。「桃園の誓い」で劉備、張飛と義兄弟となった勇義の英雄・関羽を祀っています。明和元年(1764)に、浄土宗住職・宗円より黄檗僧・大肩和尚が譲り受けて、中国僧・大成和尚が中興開山して、本堂を再建して黄檗宗の寺となりました。明治18 年(1885 )、長崎から来阪した広東の貿易商・利興成、利妥泰が発起人となり、日本人取引業者を含めた篤志家と共に本堂・拝所・表門等を中国風に改築し、本堂祭壇中央に関聖帝君、左側に天上(后)聖母・右側に財神爺(金儲けの神)を安置しました。拝殿の仏像は華商が寄進したもので、築240 年の土蔵造りの貴重な建物です。大成和尚が中国より請来した関帝像も内殿にお祀りしてあります。横浜中華街の関帝廟は明治6年(1873 )、神戸関帝廟は明治21年(1888)創建ですので、それよりも古く、日本でも有数の由緒正しい関帝廟です。

所在地:大阪府大阪市天王寺区勝山2-6-15

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2017-11-13(Mon)

安泉寺

創建年代不詳。古来村の念仏道場であったものが、徳川時代初期の寛文7年(1667年)に真宗大谷派末寺となった猪飼村固有の寺。村の中央部、鶴の橋60m北東にある。安泉寺は、徳川時代、村内の戸籍を預かり、寺小屋を開設していた。明治5年(1872年)に猪飼野小学校となり、明治20年(1887年)に平野川対岸の木野村小学校(宗玄寺も開設)と合併して、鶴嘴尋常小学校が建設されるまで村内のこどもたちの教育にあたって来ました。現在の本堂と庫裡(くり)と併せて大正14年(1925年)春、住職檀信徒協力して全面的に改築したもので、南面を西面本瓦葺に変え、太鼓楼を廃し、鐘桜門とし、井戸屋型手洗所を附属した、鐘桜門は木村権右衛門氏の寄贈による。平成6年(1994年)に至って、境内南西隅にあった猪飼野若中会館を、村内南50mの場所に移築し、老朽化した庫裡を廃し両跡地に安泉寺門戸会館と庫裡を新築し、本堂の全面補修を実施した。

所在地:大阪府大阪市生野区桃谷3丁目16番26号


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2017-11-13(Mon)

大阪能楽殿跡

1916年、能楽師・手塚(大西)亮太郎らが中心となって起工。1919年、大阪能楽殿は、日本最大の規模として完成した。建設には、関西財界人を代表する住友吉左衛門友純、野村徳七、伊藤忠兵衛らが支援した。住友家は建設用地の提供、建設費用を募る労を執るなどの支援を行った。能楽殿の敷地は約737坪の2階建。平見所(客席の桟敷)145個所、貴賓室、特別室、椅子見所が備わっていた。1945年、大阪大空襲により焼失した。


所在地:大阪市天王寺区堂ケ芝2丁目16-24(天王寺保育所前)

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2017-11-07(Tue)

堂ヶ芝廃寺

大阪は古代において東アジアの諸外国に向けた外交の窓口であり、6世紀半ばに伝来した仏教文化の受容の最先端地域でもあった。中国や朝鮮からの渡来人たちの力を中心として、はやくから大阪の地に四天王寺をはじめ多数の寺院が建立されたと考えられている。「日本書紀」「扶桑略記」「日本霊異記」などの書物にみられる大別王寺(おおわけおうじ)や百済寺はその代表的な寺院である。前者は日本から百済への使者である大別王が建てた寺とも住んだ寺ともいわれ、後者は百済王氏の氏寺ともいわれる。堂ケ芝の地と周辺から古代の瓦片は多数出土しており、古代の寺院跡と推定されている。かつて巨大な塔心礎も残っていた。この地を大別王寺や百済寺の跡と考える説もある。

所在地:大阪市天王寺区堂ケ芝1-5-19

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2017-11-01(Wed)

鈴山古墳

墳丘一辺22メートルの方墳。反正天皇陵古墳の外周にあり、陪塚として宮内庁が管理。

所在地:大阪府堺市堺区北三国ヶ丘町2丁目

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2017-11-01(Wed)

竜佐山古墳

墳丘長61メートルの後円部径43メートル、前方部幅26メートルで、前方部の短い帆立貝形(前方後円墳?)。仁徳天皇陵古墳の外周にあり、陪塚として宮内庁が管理。一部の調査では、葺石と円筒埴輪があり、幅10メートル程の周濠がめぐっていたようですが、埋葬施設などについては不明です。現在は前方部とそのまわりの濠を復元して整備されています。墳丘は宮内庁が管理し、前方部の一部と周濠は堺市が管理しています。5世紀中~後半。

所在地:大阪府堺市堺区大仙中町(大仙公園内)

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2017-11-01(Wed)

樋の谷古墳

仁徳天皇陵古墳の外濠内にあり、陪塚として宮内庁が管理。

所在地:大阪府堺市堺区大仙町

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2017-11-01(Wed)

乳岡古墳

乳岡古墳は、大阪府堺市堺区石津町2丁に所在する前方後円墳。百舌鳥古墳群に属しており、国の史跡である。
○概要
百舌鳥古墳群西端の低位段丘末端に位置しており、前方部を南西に向けている。現在、前方部の部分の大半が削平され、消滅しているが、元の全長150m、後円部の径94m、高さ14mを測る。もとは周濠を有したが、埋め立てられている。後円部上には念仏寺という寺院が存在したが、後述の発掘調査後、古墳の西方に移転した。
○内部構造と築造時期
1972年(昭和47年)に内部構造の確認のため、後円部で発掘調査が行われており、粘土で覆われた和泉砂岩製の長持形石棺が確認されている。覆っていた粘土中から碧玉製鍬形石3、同車輪石18など、石製の腕輪類が出土している。確認のための小規模な調査であったので石棺の内部は調査されず埋め戻された。出土遺物から4世紀末頃の築造と考えられ、百舌鳥古墳群では最も時期の遡る古墳である。
○所在地
大阪府堺市堺区石津町2丁
○形状
前方後円墳
○規模
墳丘長150m
○築造年代
4世紀末

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2017-11-01(Wed)

鳶塚古墳

鳶塚古墳については、平成10年に行われた確認調査では、直径21mの円墳で周囲に幅2~3m程度の周濠が検出されている。確認調査の際には、堀の中から家型埴輪なども見つかっており、それらの埴輪から5世紀の中ごろから後半に作られたのではないかと考えられている。この古墳は消滅したらしいが大仙公園内に復元されたらしい。

所在地:大阪府堺市堺区百舌鳥夕雲町2丁(大仙公園内)

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2017-11-01(Wed)

銅亀山古墳

墳丘一辺26メートルの方墳。古くは堂亀山とも記されていたようです。墳丘は高く、2段築成がよく残るなど残存度は良好で、下段は南側が造り出し状に張り出し長方形を呈しています。仁徳天皇陵古墳の外周にあり、陪塚として宮内庁が管理。

所在地:大阪府堺市堺区大仙町

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2017-11-01(Wed)

田出井山古墳

田出井山古墳は、大阪府堺市堺区北三国ヶ丘町2丁にある前方後円墳。
○概要
百舌鳥古墳群の北端に位置し、全長約148m、後円部径約76m、高さ約14m、前方部幅約110m、高さ約15mで、百舌鳥古墳群の中では7番目の大きさである。墳丘は3段に築かれ、かつては二重濠があったと確認されている。墳丘の形態や出土した埴輪より、5世紀後半頃に造築されたと考えられている。陪塚と推定される古墳が数基現存している。反正天皇の陵墓に比定され、「百舌鳥耳原北陵」として宮内庁によって管理されている。ただし、被葬者は不明。また、天皇陵に比定されている百舌鳥耳原三陵のなかで、他の2つの古墳(大仙陵古墳、上石津ミサンザイ古墳)と比べて規模がかなり小さいことから、反正天皇陵であることを疑問視する意見も多く、なかには土師ニサンザイ古墳を反正天皇陵と考える者もいる。
○交通アクセス
南海高野線堺東駅 徒歩5分
○所在地
大阪府堺市堺区北三国ヶ丘町2丁
○形状
前方後円墳(二重濠)
○規模
全長148m
前方部高さ15m
○築造年代
5世紀後半

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2017-11-01(Wed)

天王古墳

円墳のように見えますが方墳で、墳丘一辺11メートルの方墳。反正天皇陵古墳の外周にあり、陪塚として宮内庁が管理。

所在地:大阪府堺市堺区北三国ヶ丘町3丁目

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2017-11-01(Wed)

孫太夫山古墳

墳丘長48メートル、後円部高約7.6メートル、前方部幅約30メートルで、前方部の短い帆立貝形を呈する。仁徳天皇陵古墳の外周にあり、陪塚として宮内庁が管理。5世紀中~後半。一部の調査では、葺石と円筒埴輪があり、幅10メートル程の周濠がめぐっていたようですが、埋葬施設などについては不明です。現在は濠を復元して整備されています。後円部は宮内庁が管理し、前方部と周濠は堺市が管理しています。なお、前方部は、公園造成の時に復元しています。

所在地:大阪府堺市堺区百舌鳥夕雲町2丁目(大仙公園内)

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2017-11-01(Wed)

聖塚古墳

墳丘直径15メートルの円墳。ニサンザイ古墳の外周にあり、陪塚と考えられる。大阪府立大学の敷地内にある古墳である。しかしこれは古墳でないらしい(09年度に市教委が初めて聖塚古墳を発掘調査したところ、墳丘とみられていた部分(高さ約1.5メートル)の最下層から、江戸時代の磁器が出土し、18世紀以降に土を盛ってつくられたことが判明。市教委は、古墳の可能性が極めて低いと判断した)。

所在地:大阪府堺市中区学園町(大阪府立大学の敷地内)

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2017-11-01(Wed)

西酒呑古墳

円墳。この古墳については住宅地の中に空き地があり、こんもりとした小さな山のようになっている。石碑や看板もないため、近所の人もこれが古墳だとは気付いていないかもしれません。

所在地:大阪府堺市堺区旭ヶ丘南町2丁目

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2017-11-01(Wed)

大仙陵古墳

大仙陵古墳(大仙古墳、大山古墳とも)は、大阪府堺市堺区大仙町に存在する日本最大の前方後円墳。周囲の古墳と共に百舌鳥古墳群を構成している。墓域面積が世界最大であるとされる。宮内庁により仁徳天皇の陵墓と治定されており、百舌鳥耳原中陵(もずのみみはらのなかのみささぎ)との陵号が与えられている。一般的には仁徳天皇陵または仁徳御陵と呼ばれる。ただし発掘調査は宮内庁により禁止されているため、仁徳天皇陵とは学術的には断定されていない。
○古墳の概要
・築造時期・被葬者
採集されている円筒埴輪や須恵器の特徴から5世紀前半から半ばに築造されたものと考えられている。前方部埋葬施設の副葬品は5世紀後期のものと考えられるが、前方部に存在する副次的な埋葬施設の年代として問題ないとされる。
・治定について
『記紀』『延喜式』などの記述によれば、百舌鳥の地には仁徳天皇、反正天皇、履中天皇の3陵が築造されたことになっている。しかし、それぞれの3陵として現在宮内庁が治定している古墳は、考古学的には履中天皇陵(上石津ミサンザイ古墳)→仁徳天皇陵(大仙陵古墳)→反正天皇陵(田出井山古墳)の順で築造されたと想定されており、大きく矛盾が生じている。このことから、百舌鳥の巨大古墳の中で最も古く位置づけられる伝履中天皇陵を伝仁徳天皇陵にあてる見解もある。しかし、この場合は後述する『延喜式』の記述と大きく食い違うことになる。
・規模
現状での規模は、墳長がおよそ486メートル、前方部は幅305メートル、高さ約33メートル。後円部は直径245メートル、高さ約35メートルである。三重の濠の外周は2,718メートル、その内側の面積は464,124平方メートルである。486メートルの墳長は、第2位とされる大阪府羽曳野市の誉田御廟山古墳(応神天皇陵)の422メートルを上回り、日本最大である。墳丘本体の体積や表面積では誉田御廟山古墳と甲乙付けがたく、特に体積については誉田御廟山古墳が最大であるとの指摘がある。
・墳形・周濠
墳丘は3段からなっている。測量図では、前方部の一部は綺麗な三段になっているが、墳丘の大半の等高線に大きな乱れが観察され、地震などによる大規模な崩壊もしくは人為的破壊、あるいは未完成であったことが推測されている。後円部の頂上部分は崩壊が酷いが、もとは直径60~70メートルの円形であったようである。被葬者が葬られた後円部と前方部とが繋がるくびれ部には両側に突出した造出しがある。この造出しの役割は、まだ解明されていない。江戸時代の絵図『舳松領絵図 上』に三重目の濠の南西角周辺が残存した姿が描かれており、また残存部以外でも農地の地割に濠の痕跡が認められるため、濠はもとは三重であったと考えられる。現在の三重目の濠は埋没部分を1896年(明治29年)に掘り直し、復元されたものである(『堺市史続編』)。この三重目の濠は、大古墳の周りに配置された陪塚(ばいちょう・ばいづか)の円墳に3カ所で突き当たり、それらを迂回している。内濠(一重目)の幅は約70メートル、くびれ部では最も広く東側で115メートル、西側で120メートルある。この内濠を囲むのが内堤である。ここに約30センチメートルの円筒埴輪の埋没が各所で確認されている。外濠(二重目)を囲んで外堤が造られていた。三重目の濠があるがその外側に堤がないのが不自然である。また、内側の外堤部も元々は一部が切れていたが、これも1896年(明治29年)の工事で補修され、現在の形になった。現在でも航空写真で後円部を上、前方部を下と見立てた際に左側の外堤が細くなっている。
・外表施設
墳丘には葺石と埴輪が存在している。特に三重目濠から出土した巫女形埴輪の頭部が著名である。また造出し近辺で宮内庁職員が須恵器の大甕を採集しており、本来は造出し上に置かれていたものである可能性が高い。埴輪の中には武人や馬などが多いが、中には円筒形をしたものがあり、これは結界を張って内部に人を入らせないようにしていたと考えられる。
・埋葬施設
後円部に存在する埋葬施設は江戸時代には露呈しており、既に盗掘されているようである。江戸時代の1757年(宝暦7年)には、後円部の埋葬施設には長持型石棺が認められている。前方部正面の中段にも竪穴式石室が築造されている。1872年(明治5年)には、風雨によって前方部前面の斜面が崩壊し、埋葬施設が露出している。その際の発掘調査で石室と石棺が掘り出されているが、この時の記録は関東大震災で焼失してしまっている。残された絵図面によれば、その埋葬施設は長持形石棺を納めた竪穴式石槨で、東西に長さ3.6~3.9メートル、南北に幅2.4メートル。周りの壁は丸石(河原石)を積み上げ、その上を3枚の天上石で覆っている。その中に組合せの長持形石棺が納められ、下半分は埋もれたままである。
・副葬品
後円部埋葬施設の副葬品は知られていないが、前方部の石室は1872年(明治5年)の発掘調査の際に、石棺の東側に「甲冑并硝子坏太刀金具ノ破裂等」が、石棺の北東に「金具存セザル鉄刀二十口斗」が発見されている。甲冑は、眉庇付冑(まびさしつきかぶと)と短甲で、冑には鋲留めにされた金銅製の小札(こざね)と鉢の胴巻きに円形の垂れ飾りを下げ、眉庇に透かし彫りが施された豪華なもの。甲(よろい)は金銅製の横矧板(よこはぎいた)が鋲留めにされている。また、右の前胴が開閉するように脇に2個の蝶番を付けられており、これらの組合せは、当時の流行を表したものである。鉄刀二十口は、把(つか)や鞘には金属製の装具のない簡略な外装の刀、ガラス杯は、緑系のガラス壺と白ガラスの皿がセットになった品であったという。なお、この調査では石棺の開封調査は行われていない。
・ボストンの仁徳陵出土品
アメリカのボストン美術館に仁徳天皇陵出土とされている銅鏡や環頭大刀などが収蔵されている。これらの品は、1908年(明治41年)には既に博物館に所蔵されていたようで、梅原末治によって紹介されている。鏡は細線式獣帯鏡で、青龍、白虎、玄武、朱雀などの霊獣を文様とする立派なもので、後漢製の舶載鏡と推定される。しかし、百済の武寧王陵から同種の鏡が発掘され、中国の南朝での製品という可能性もある。刀は、刀身が折れて無くなっていて、長さ23センチの把(にぎり、柄)と環頭(柄尻)が残っている。環頭は鋳銅で形を作り、その上に金鍍金がしてあり、環の中央には竜の首を彫刻し、竜首を取り巻く環には双竜を浮き彫りにしている。把には連続した三角形の中に禽獣を浮き彫りにした帯状の飾り金具を付けている。この類似品は朝鮮半島南部の新羅や任那の古墳から出土している。宮内庁書陵部の研究によると、これらの出土品は、ボストン美術館中国・日本美術部勤務であった岡倉天心により、1906年(明治39年)に京都で購入された可能性が高いという。また、実年代は「6世紀の第1四半期を中心とした時期」であり、古墳の築造時期とずれがあるという[1]。
・陪塚
陪塚は「ばいづか」と読み、陪冢(ばいちょう)ともいう。陪塚は中型や小型合わせて15基あり、前方後円墳1基、帆立貝式古墳はその可能性も含めて5基、大きな円墳2基、円墳または方墳など小さな古墳7基、合わせて15基が陪塚的な位置にある。西側から狐山、竜佐山(帆立貝式古墳)、孫太夫(帆立貝式古墳)、収塚(帆立貝式古墳推定)で、これら4古墳は大山古墳と同時期に築造された。前方部の南西端を北上すると直ぐ銅亀山(方墳か)、さらに北上し後円部の北方に丸保(防)山古墳(帆立貝式古墳)とその北に永山古墳(前方後円墳)があり、ともに周濠がある。丸保山古墳の南西にもう1基の帆立貝式古墳と南東に墳形不明の古墳がもう1基ある。後円部の長軸線上で外堤上に茶山古墳(直径約55m、円墳)、その東方で外堤上に大安寺山古墳(直径約60m、円墳)があり、陪塚に指定されているが、円墳では大規模な部類に入り検討すべき点が多いという。大安寺古墳の南東直ぐ近くに源衛門山古墳(直径約40m、円墳、周堀)がある。さらに三重目の濠に沿って南下すると塚周り古墳があり、また、南に円墳と方墳らしき古墳があったが、戦後の混乱期に復興のための土取工事で1950年(昭和25年)頃に消滅した。
○史料上の記述
・『記紀』の記述
『古事記』では、オオササギ(仁徳天皇)は83歳で崩御したといい、毛受之耳原(もずのみみはら)に陵墓があるとされる。『日本書紀』には、仁徳天皇は仁徳天皇87年(399年)正月に崩御し、同年10月に百舌鳥野陵(もずののみささぎ)に葬られたとある。
・延喜式
平安時代の法令集である『延喜式』には、仁徳天皇の陵は「百舌鳥耳原中陵」という名前で和泉国大鳥郡にあり、「兆域東西八町。南北八町。陵戸五烟。」と記述されている。なお、「兆域東西八町。南北八町。」という敷地が他の陵墓と比較すると群を抜いて広大であることから、ここに記される「百舌鳥耳原中陵」が当古墳を指していることは間違いないと考えられる。「中陵」というのは、この古墳の北と南にも大古墳があるからで、北側は反正陵、南側は履中陵であると記されている。
・堺鏡
『堺鏡』(1684年(貞享元年))には豊臣秀吉が当古墳でしばしば猟を行っていたと記されている。また『堺鏡』には当古墳が「仁徳天皇陵」であると記されており、江戸時代には既に「仁徳天皇陵」として信じられていた。そのため、尊皇思想の高揚にあわせて整備や管理強化がたびたび行われている。1685年(貞享2年)に後円部の盗掘坑が埋め戻されたことを手始めに、元禄の修陵(1698年(元禄11年))で後円部墳頂に柵を設置、享保の修陵時(1722年(享保7年))には一重濠と二重濠の間の堤に番人小屋を設置、1853年(嘉永6年)には後円部に設置されていた勤番所を堤に移転するとともに後円部の柵を石製に変更、1864年(元治元年)には文久の修陵の一環として前方部正面に拝所を造成している。また、この時に墳丘西側で途切れていた一重濠と二重濠の間の堤を接続させる工事が行われ、一重濠と二重濠が切り離されている。翌、1865年(慶応元年)には朝廷より勅使が参向し、現在へとつながる管理体制となった。次第に管理が強化されていったが、幕末までは後円部墳頂などを除き、古墳に自由に出入りすることが可能であったという。
・明治時代
1872年(明治5年)の前方部斜面の崩壊による埋葬施設が露出を受けて、堺県令税所(さいしょ)篤等による緊急発掘が行われた。この時の調査は、古川躬行(堺の菅原神社の神官・国語学者)の執筆、柏木政規(諸陵寮の役人)の作図による『壬申十月大仙陵より現れし石棺の考へ 同図録』とその添図『明治壬申五月七日和泉国大島郡仁徳天皇御陵南登り口地崩出現ノ石棺并石郭ノ図』および甲冑の図としてまとめられた。ただし、この記録から発掘の過程や程度などの細部をうかがい知ることはできない。
・名称の変遷と混乱
形状を現す大山(大仙)を冠する場合は古墳と続け、被葬者を表す仁徳を冠する場合は陵(御陵・帝陵・天皇陵)と続けるのが一般的であった。しかし、大仙陵や仁徳陵古墳といった折衷的な名称が見られるようになり混乱が生じている。また、併記する場合も多いため、より多種に渡ってしまっている。主因は仁徳天皇の墓かどうかの論争にあり、1971年(昭和46年)以降「仁徳陵」の名称で呼ぶことが提唱された。しかし、これでは仁徳天皇の墓であることを否定したことにはならないため、1976年(昭和51年)以降[2]、より学術的な遺跡の命名法に則り「大仙陵古墳」の使用が始まった。しかし、「みささぎ」とも読む「陵」の一字で天皇の墓を意味してしまう点を見落としており、結果、もともとあった大山(大仙)古墳という天皇を全く示唆しない名称と比べ、かえって妥協的な代物になってしまっている。なお、大山古墳の表記は江戸時代の絵図等にも見られ、上記の天皇の墓であることへの否定的な考えから生まれた名称ではない。宮内庁は仁徳天皇の墓に比定しており、地図上では「仁徳天皇陵」が採用されている(明治期の地図では「仁徳帝陵」となっていることが多い)。また、国民的にも(近畿地方、中でも地元大阪府では、大仙古墳よりも仁徳天皇陵のほうが広く認知されている)国際的にも定着した名称を重んずる意見も多数あり、学術用語としては流動的でいまだに確定しておらず、いずれもが正式名称として使用可能である。現在では、堺市が町名に大仙を採用したことから(大仙町、1929年(昭和4年)より)、大山よりも大仙が定着している。また、仁徳御陵・仁徳帝陵よりも仁徳天皇陵が定着しているが、堺市民の間では単に御陵と呼ばれることが多く、駅(御陵前駅)、道路(御陵通)、町名(御陵通、1933年(昭和8年)より)などの名称にもなっている。
・現状
歴史の教科書に「世界最大級の墳墓」として掲載され、宮内庁管理のため陵域内への自由な出入りはできないが、堺市の主要な観光地となっている。最も墳丘に近づけるのは正面の拝所で、二重濠の外側堰堤まで立ち入ることができる。2000年(平成12年)には特別参拝として二重濠の内側堰堤まで立ち入りが許されたことがある。しかし、濠に棲むナマズや鯉を狙った釣り人のゴムボートによる無断立ち入りが昔から後を断たず、警備上の問題点とされている。三重濠に沿って周遊路があり(1周約2,750メートル)、陵域を一周することもできるが、余りにも巨大な墳丘のため、どこから見ても山にしか見えない。考古学的には仁徳天皇の陵であることに否定的な見解が唱えられているが、築造時期が5世紀前半~中頃との見方が確定することによって、文献史学上で想定される仁徳天皇の活動時期に近づくとする見解もある。ただし、宮内庁が調査のための発掘を認めていない現状において、学術上ここが仁徳天皇陵であると確定することは不可能であることにより、現在では教科書などを含めて「仁徳天皇陵」との呼び名は用いられなくなっている。堺市民は親しみを込めて「仁徳さん」もしくは「御陵さん」などと呼んでいる。堺市内には、他にも2つの天皇陵(履中天皇陵・反正天皇陵)があるが、単に「御陵」と言った場合は仁徳天皇陵を指す。また、堺市の地区名や町名には、陵西・陵南・向陵(北東)など、この古墳からの方角にちなんで付けられたものがある。堺市役所高層館21階の展望ロビーからは、巨大な前方後円墳の全容を遠望することができる。他の古墳にも言えることだが、立ち入り制限のおかげで、都会の中心にありながら貴重な自然が残されていることも特徴である。鬱蒼とした木々が茂り、多くの鳥や昆虫の楽園となっている。
・「世界遺産登録計画」
政令指定都市となった堺市では、大仙陵古墳を含む「百舌鳥古墳群」を、ユネスコの世界遺産に登録する計画が持ち上がっている。しかし、大仙陵古墳は皇室財産であり、登録条件である「当該国又は地方の法令による確実な保護管理を担保すること(日本では文化財保護法に基づく『国宝』や『特別史跡』、自然公園法に基づく国立公園など)」を満たしていない。この点については、宮内庁・文化庁・大阪府・堺市等関係機関が協議継続中である。歴史学や考古学の一部学会からは、世界遺産登録やその登録条件となる文化財指定が、宮内庁管理下の天皇陵古墳の公開や発掘調査に道を開くものとして歓迎する声がある一方で、皇室財産を文化財同様に扱うことへの反対運動も多い。2008年(平成20年)9月26日 仁徳天皇陵を含む百舌鳥古墳群・古市古墳群が世界遺産の国内暫定リストに追加された。
○交通アクセス
JR阪和線百舌鳥駅徒歩5分
三国ヶ丘駅から1分
○所在地
大阪府堺市堺区大仙町
○形状
前方後円墳
○規模
全長486m、高さ35m(全国1位、世界最大)
○築造年代
5世紀前期~中期

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2017-11-01(Wed)

七観音古墳

墳丘直径32.5メートルの円墳。履中天皇陵古墳の外周にあり、陪塚と考えられる。大仙公園で保存。公園整備に伴う発掘調査では、墳丘盛土と墳丘裾の可能性のある地山の立ち上がりを確認しました。主体部については未調査のため不明ですが、碧玉(へきぎょく)製の琴柱(ことじ)形石製品が出土したといわれています。また、濠の明瞭な肩や堆積層は検出されていないことから、古墳築造当初から周濠は設けられなかったと推定できます。

所在地:大阪府堺市堺区旭ケ丘北町5丁目(大仙公園内)

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2017-11-01(Wed)

寺山南山古墳

墳丘一辺41.5メートルの方墳。周濠がめぐる。独立した古墳である。履中天皇陵古墳の外周にあり、陪塚と考えられる。大仙公園で保存されている。

所在地:大阪府堺市西区上野芝町1丁目(大仙公園内)

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2017-11-01(Wed)

菰山塚古墳

墳丘長33メートルの前方後円墳。仁徳天皇陵古墳の外周にあり、陪塚として宮内庁が管理。

所在地:大阪府堺市堺区南丸保園

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2017-11-01(Wed)

狐山古墳

墳丘直径23メートルの円墳。仁徳天皇陵古墳の外周にあり、陪塚として宮内庁が管理。

所在地:大阪府堺市堺区大仙中町

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2017-11-01(Wed)

経堂古墳

百舌鳥古墳群に属し、径20メートルの円墳。第十七代履中天皇陵である上石津ミサンザイ古墳からやや離れたところにあるが、陪塚として宮内庁が管理している。上石津ミサンザイ古墳の陪塚として、他に七観音古墳、東酒呑古墳などがある。5世紀前半の古墳である。
所在地:大阪府堺市堺区南陵町4丁目

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2017-11-01(Wed)

旗塚古墳

墳丘長53.8メートルの前方後円墳で前方部の短い帆立貝形を呈する。独立した古墳である。5世紀中~後半。大仙公園で保存。

所在地:大阪府堺市北区百舌鳥夕雲町3丁目(大仙公園内)

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2017-11-01(Wed)

丸保山古墳

丸保山古墳は、大阪府堺市堺区北丸保園に所在する古墳(前方後円墳)である。百舌鳥古墳群の中の一基であり、すぐ近くにある大仙陵古墳の陪塚と考えられている。国の史跡に指定されている。
○概要
大仙陵古墳の北西の周濠に接して立地しており、同古墳の陪塚と考えられる前方後円墳である(前方部が短い形状から、帆立貝形古墳とも称する)。全長87メートル、後円部径67メートル、前方部幅40メートルを測る。前方部はかつて住宅や農地が存在したため削平されているが、低く短いという特徴を持ち、周囲には周濠がめぐる。後円部は宮内庁が陪塚として管理しており、前方部と周濠は堺市が管理している。1972年(昭和47年)に前方部と周濠のみが国の史跡に指定されている。
○所在地
大阪府堺市堺区北丸保園
○形状
前方後円墳
○規模
墳丘長87m
○築造年代
5世紀

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2017-11-01(Wed)

永山古墳

永山古墳とは、大阪府堺市堺区東永山園に所在する前方後円墳。百舌鳥古墳群に属しており、宮内庁より大仙陵古墳の陪塚の指定を受けている。
○概要
大仙古墳の周濠の北側に接して、前方部を南南西に向けて立地している前方後円墳である。大仙陵古墳の陪塚の可能性がある。墳丘は段築によって築かれ、全長104m、後円部は径約63m、高さ9m、前方部幅67m、高さ約8mを測る。西側くびれ部に造出しが認められ、馬蹄形の周濠がめぐる。内部主体、副葬品は不明である。現在、宮内庁より大仙陵古墳(百舌鳥耳原中陵)の陪塚として管理されている。
○所在地
大阪府堺市堺区東永山園
○形状
前方後円墳
○規模
墳丘長104m
○築造年代
5世紀(推定)

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2017-11-01(Wed)

グワショウ坊古墳

墳丘直径61メートルの円墳。周濠がめぐる。独立した古墳である。古墳林は植生観察林ともなっている。大仙公園で保存。

所在地:大阪府堺市堺区百舌鳥夕雲町3丁目(大仙公園内)

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2017-11-01(Wed)

かぶと塚古墳

墳丘長50メートルの前方後円墳で前方部の短い帆立貝形を呈する。大塚山古墳の陪塚の可能性がある。

所在地:大阪府堺市西区上野芝町6丁目

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2017-09-30(Sat)

もと熊野街道

平安時代中期から鎌倉時代初めにかけて熊野信仰が盛んになり、王侯貫族をはじめ庶民に至るまで熊野詣をした。それは「蟻の熊野詣」と形容されるほどであった。京から淀川を船で下り、窪津(くぼつ)(八軒家)に上陸した人々は、上町台地を縦断、途中点々と所在する王子と呼ぶ遥拝所兼休憩所をたどりながら、熊野三山に到った。阿倍王子神社は阿倍野王子の跡であり、市内唯一残るものである。前の道は熊野街道で、この付近と万代池西側や遠里小野町付近などは、旧街道の面影をのこしており、歴史の顕彰が行なわれている。
所在地:大阪府大阪市阿倍野区阿倍野元町9阿倍王子神社前
最寄り駅:堺電鉄「東天下茶屋」下車南東約200m

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2017-09-30(Sat)

安倍晴明生誕伝承地

安倍晴明(921~1005)は、平安時代の高名な天文博士・陰陽師である。記録上には天徳4年(960)天文得業生として現れ、寛弘元年(1004)左京権太夫として名を連ねる。多くの事柄を予言するなど、その伝承は『今昔物語』、『大鏡』などで流布され、狐と人間の婚姻説話で知られる。当社は晴明の子孫という保田家により、寛弘年間(1004~1012)に創祀されたという。
所在地:大阪府大阪市阿倍野区阿倍野元町5安倍晴明神社
最寄り駅:阪堺電鉄「東天下茶屋」下車南東約100m

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