2018-06-07(Thu)

定の山古墳

定の山古墳とは、大阪府堺市北区に所在する前方後円墳または帆立貝形古墳。1960年代の区画整理工事により墳丘が著しく変形したが、現在は城の山公園として保存されている。
○概要
ニサンザイ古墳の北500メートルの城の山公園内にある小山が定の山古墳である。墳丘長69メートル、後円部径53メートル、高さ7メートル、前方部幅23.5メートルである。前方部を西に向けており、墳形は前方後円墳というより帆立貝形古墳という方が正しいようである。1950年代後半から1960年代前半までは周濠の痕跡が畦にくっきりと残っていた。1968年(昭和43年)に土地区画整理事業により、墳丘の一部が破壊され著しく変形されてしまったが、墳丘部分の発掘調査が行なわれ、その重要性から保存されることとなり、破壊、変形した部分は復元され現在は公園となっている。なお調査により埴輪列と葺石の存在が明らかとなっている。
○所在地
大阪府堺市北区百舌鳥梅町
○形状
前方後円墳(帆立貝形古墳)
○規模
墳丘長69m
○築造年代
5世紀



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2018-06-07(Thu)

御廟表塚古墳

墳丘長75メートルの前方後円墳。独立した古墳である。5世紀中~後半。墳丘長約84.8mの帆立貝形古墳、築造時期は5世紀後半と推定。「耕地開発や宅地開発により、周濠の大半が埋められ、前方部が失われています。」とのこと。今は前方部は完全に住宅地となっています。でも、この古墳、後円部の頂上まで登れます。

所在地:大阪府堺市北区中百舌鳥町4丁544



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2018-06-07(Thu)

鎮守山塚古墳

直径34mの円墳、築造時期は5世紀中頃と推定。円墳の西半分は道路で消失。光明院の境内にあるが私有地のため見学不可。円筒埴輪、蓋形、家形、石見形埴輪などが出土されている。 看板もなく、ここに古墳があることには気づかないと思う。

所在地:大阪府堺市北区百舌鳥赤畑町5丁目732

2018-06-07(Thu)

土師ニサンザイ古墳

土師ニサンザイ古墳は、大阪府堺市北区百舌鳥西之町3丁にある前方後円墳。
○概要
百舌鳥古墳群の南東の端に位置する。墳丘は3段構築で全長は約290m、後円部の径は約156m・高さ約24m、前方部の幅は約226m・高さ約22.5mで、前方部を西に向けており左右に造り出しがある。日本で8番目の大きさとなっている。現在の周濠は一重だが、二重目の濠が一部確認されている。宮内庁が「東百舌鳥陵墓参考地」に指定しているものの、天皇は埋葬されていないものとされている。5世紀後半の築造と考えられており、百舌鳥古墳群の大型古墳の中では最も時代が新しい。陪塚は3つ以上あったとされるが、大阪府立大学中百舌鳥キャンパス(大阪府堺市中区学園町)構内にある聖塚のみが現存している。
○交通アクセス
南海高野線中百舌鳥駅徒歩18分
大阪市営地下鉄御堂筋線なかもず駅徒歩20分
○所在地
大阪府堺市北区百舌鳥西之町
○形状
前方後円墳
○規模
全長290m
○築造年代
5世紀後半
○特記事項
東百舌鳥陵墓参考地



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2018-06-07(Thu)

尾羽根天満宮

今より三百年前より河内國道明寺天満宮の分祀としてこの地に祀られた。当地には尾羽根庵があり、真言宗道明寺より派遣された尼僧が代々お守りしていたが、明治初期の神佛分離令により各村々の鎮守さんは百舌鳥八幡宮に合祀されたが、当天満宮だけはこの地に残された。厨子は二百八十年前泉州大鳥郡万代之庄と言った頃に当社の再興に当たり、享保七年(1722)八月堺湯屋町の富豪布屋谷善右衛門齋泉主より寄進されたもの。社殿は木造であったが平成九年十二月吉日鉄社に造営された。菅原道真をまつる。由来は、もともと尾羽根には梅松庵と呼ばれる真言宗の尼寺があり、その横に天神があったとされ、河内道明寺天満宮の分祀として祀られている。尾羽根天満宮には、菅原道真像が祀られている厨子があるが、これは、享保7年に布屋谷善右衛門斉泉氏が寄進されたもの。  

所在地:大阪府堺市北区百舌鳥梅町2丁426



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2018-06-07(Thu)

光明院

仏頂山金輪寺光明院と称し、高野山真言宗金剛峰寺に属す。金輪仏頂釈迦如来を本尊に、子育地蔵菩薩・十一面観音菩薩
を脇仏として安置している。寺伝では光明皇后の発願により天平元年(729)に創建され僧行基の開基と伝えられるが、以後の記録は元禄11年(1678)に光明院愈舜瑞照が逢坂奉行所へ提出した「光明院寺社記載願」 中にみえる「降三世法一巻」の奥書にある「正和4年(1315)6月22日於泉州毛須光明院書了」の記事による他はない。堺市史によると光明院は堂塔が廃壊し、瓦礫礎石のみになっていたが、慶長・元和のころ宗祐法師が小庵を結んで居住し、以降道祐法師・明祐比丘・寿宝比丘尼・寿円比丘尼・愈舜へと法灯を継承し、享保17年(1732)に大鳥神社の神宮寺鳳寺の末寺となった。慶応4年(1868)の神仏分離令により、大鳥神社の神鳳寺が廃寺となったので、当時神鳳寺の末寺であった当寺に仏像類・絵画・建物等の文化財を移し現在に至る。寺内にある神宮皇后の建立と伝えられる、頭守り地蔵は頭痛、中風よけ地蔵として有名である。

所在地:大阪府堺市北区百舌鳥赤畑町5-732



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2018-06-07(Thu)

野町地蔵尊

池田市内、阪急石橋駅のフェンスに接した場所である。パチンコ屋脇、駐輪場の奥に地蔵堂があった。『池田市史』によれば、池田にも「巳さん」と呼ばれる蛇の信仰がかなり残っているようだ。どこそこの木を伐ったら巳さんが祟った、という類である(池田市史編纂委員会 1998:209;358;375)。蛇と関わりの深い「弁天」とか「龍王」が地蔵堂に祀られているのも、そのような習俗がベースにあるのかもしれない。

所在地:仏教
〒563-0032大阪府池田市石橋1-2(阪急宝塚線「石橋」南西。)



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2018-06-06(Wed)

大野寺

土塔山大野寺は、堺市中区にある高野山真言宗の寺院である。本尊は、十一面観音立像である。飛鳥・奈良時代の高僧行基(668-749)が開創した四十九院の一つで、「行基年譜」によると、行基60歳の神亀4年(727年)に創建された。本堂の道路を挟んで南側に、国史跡の土塔がある。土塔は、大野寺の仏塔で、鎌倉時代の「行基菩薩行状絵伝」に大野寺とともに描かれている。一辺53.1m、高さ8.6mの四角錐の形をした十三重の塔で、発掘調査で6万枚以上の瓦が葺かれていたことが判明した。土塔からは、文字を記した瓦が約1300点出土しており、大半は人名で、行基とともに土塔を建立した「知識(衆)」と呼ばれる人々の名前を記したもので、僧尼や貴族の名前も含まれている。創建当時を再現した瓦葺きのほか、断面がわかりやすく見られる「断面転写」や、全体の復元模型があり、行基の偉業が実感できる。類似の構造物として、奈良市高畑町には、頭塔があり、インドネシアスマトラ島には、ピラミッド型建造物としてプグンラハルジョ遺跡がある。泉北高速鉄道深井駅から南海バスで深井東町下車すぐ。

所在地:大阪府堺市中区土塔町2167

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2018-05-21(Mon)

安楽寺

安楽寺は、草創は不詳ですが、天正6(1578)年の荒木村重の乱で焼亡後、正保元(1644)年に至って武蔵国岩槻村出身の圓譽離念無為(エンヨリネンムイ)によって再興されました。現本堂は平成元(1989)年の再建です。安楽寺には蘇鉄〔豊中市指定天然記念物〕があります。

所在地:〒560-0055大阪府豊中市柴原町5‐5-15

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2018-05-21(Mon)

真覚寺

暁雲山浄土真宗本願寺派
寛永7年(1630)3月、門徒の惣道場として創建。
万治2年(1659)備後国芦田郡井原町の柳恵が豊島郡石蓮寺の興法寺懐雲の世話で、末寺となる。
西徳元年(1711)西本願寺末寺となる。
明治6~15年(1873~82)は小学校の役割を果たしていた。

所在地:大阪府豊中市上新田2-1-3

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2018-05-21(Mon)

箕面市にある坪の由来

坪とは、一坪ほどの地面から水が湧き出ている場所のことです。瀬川地区には、武蔵坊弁慶が戦場に行く前に自分の姿を水に映し、鏡の代わりとして服装を整えてから戦場へ行ったと言い伝えのある「弁慶の鏡水」の他、、14カ所のツボがあったそうです。

所在地:大阪府箕面市瀬川3丁目(3中横の公園内)

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2018-04-28(Sat)

壬生中屯所旧跡八木邸

八木邸は新選組の屯所として使われた、郷士八木家の邸宅。八木家は但馬国で八木安高により起こった。源頼朝より今の家紋(三つ木瓜)を拝領したと伝っている。室町時代に京の壬生に移し、江戸の浪士組の宿となる。

所在地:京都市中京区壬生梛ノ宮町24

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2018-04-28(Sat)

旧本能寺跡

言わずとしれた「本能寺の変」の舞台となった場所。1568(永禄11)年に足利義昭を奉じて上洛を果たした織田信長は京都には居館を構えず、妙覚寺や本能寺を宿所としていたという。1582(天正10)年6月2日早朝、明智光秀により本能寺を襲撃された織田信長はこの地で自刃し、本能寺は炎上した。信長の「是非に及ばず」の言葉は有名。現在の本能寺は1587(天正15)年に豊臣秀吉によって都市計画による区画整理を名目に直線距離で1.2kmほど離れた場所(現在の中京区寺町御池下る)に移動させられた。本能寺跡の所在については、元本能寺町や本能寺町の町名などから旧京都市立本能小学校付近と推定されていた。しかし、1992(平成4)年に小学校の廃校後に行われた発掘調査により、織田信長の定宿だった当時の遺構が発見されて話題を呼んだ。現在では石柱が建立されている北側の一帯で、南は蛸薬師通、北は三条通、東は西洞院通、西は油小路に囲まれた区域とする説が有力視され、寺の大きさも東西約100m、南北約200mの規模を有していたものと考えられている。旧本能小学校は、現在では京都市立堀川高等学校本能学舎と京都市本能特別養護ルームの施設となっていて石碑がある。

住所:京都府京都市中京区小川通蛸薬師元本能寺町

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2018-04-28(Sat)

梛神社

梛神社は、京都府京都市中京区壬生にある神社。通称は「元祇園社」。境内には大正期に遷座した式内大社の隼神社が鎮座する。
○祭神
祭神は次の通り。
主祭神素戔嗚尊
配祀神次の3柱のほか数柱。 宇賀御魂命
伊弉冉命
誉田別尊

○歴史
社伝では、貞観11年(876年)に京での疫病流行により播磨国広峰(広峰神社)から牛頭天王(素戔嗚尊)を勧請して鎮疫祭を行った際、牛頭天王の分霊をのせた神輿を梛の林中に置いて祀ったのが創祀という[1]。その後、牛頭天王の神霊を八坂に祀って祇園社(八坂神社)を創建する際、梛の住民が花飾りの風流傘を立て、鉾を振って楽を奏しながら神輿を八坂に送ったといい、これが祇園会の起源であるとしている[1]。また、このことから梛神社は「元祇園社」と呼ばれるという。明治までは小祠であったが、明治7年(1874年)と昭和4年(1929年)の復興により現在の形が整えられたという。

○隼神社
隼神社は、梛神社境内にある神社。式内社(大社)。

・祭神
主祭神 建甕槌神(たけみかづちのかみ)
配祀神 経津主神(ふつぬしのかみ)

・歴史
概史
創建は不詳。
国史では『日本三代実録』において、貞観2年(860年)から貞観16年(874年)にかけて「後院隼神」の神階が無位から従四位上まで昇叙された旨の記載がある[2]。また、延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では「京中坐神三座 並大」のうちに「左京四条坐神一座 月次新嘗 隼神社」として、式内大社に列するとともに月次祭・新嘗祭で幣帛に預かった旨が記載されている。『三代実録』当時に四条に所在した後院は朱雀院(右京三条から四条)であることから、この隼神社は朱雀院の院内に祀られた神社であったと見られている。朱雀院の復元研究においても院の南西角に鎮守として石神明神・隼社があったことが明らかとなっており、当時の隼社の位置は四条大路と皇嘉門大路交点の北東角、すなわち現在の中京区壬生花井町の南西部分と推定されている。その後、『延喜式』編纂時までには左京四条坊内坊城小路に移されたと見られ、以後同地で推移したとされる。江戸時代には「隼」が訛って「ハヤクサ」と読まれたことから、瘡(くさ:皮膚病の一種)の平癒のために信仰されたという。その後大正7年(1918年)に現在地の梛神社境内に遷座した。旧鎮座地には石碑が建てられている。なお、奈良県奈良市にも隼神社の鎮座が知られる。同社の社伝では、平安遷都に伴い勧請されて平安京中の隼神社になったとするが、詳らかではない。
・神階
六国史における神階奉叙の記録。いずれも「後院隼神」と表記される。
貞観2年(860年)6月15日、無位から従五位下 (『日本三代実録』)
貞観7年(865年)6月4日、従五位下から従五位上 (『日本三代実録』)
貞観10年(868年)11月17日、従五位下から従四位下 (『日本三代実録』)
貞観16年(874年)8月4日、従四位下から従四位上 (『日本三代実録』)
・祭事
年間祭事は次の通り。
月次祭 (毎月1日・15日・17日)
歳旦祭 (1月1日)
元始祭 (1月3日)
節分祭 (2月2日・3日)
祈年祭 (2月17日)
氏神祭 (5月第3日曜)
夏越祓、茅の輪くぐり (6月30日)
隼神社例祭、火焚祭 (11月第3日曜)
新嘗祭、勤労感謝祭 (11月23日)
大祓式 (12月31日)

○現地情報
所在地京都府京都市中京区壬生梛ノ宮町18-2
交通アクセス鉄道 阪急電鉄京都本線 大宮駅 (西へ徒歩約4分)
京福電気鉄道嵐山本線 四条大宮駅 (西へ徒歩約4分)
バス 京都市営バスで「壬生寺道」バス停下車

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2018-04-28(Sat)

二条陣屋

二条陣屋は京都府京都市中京区にある伝統的建造物(町家)。建築物3棟と土地が国の重要文化財に指定されている(指定名称は「小川家住宅」)。
○概要
当住宅は、二条城の南方、洛中の西のはずれに近い、大宮通御池下る三坊大宮町にあり、大宮通の西側に屋敷地がある。屋敷地は表間口16メートル余、裏間口40メートル余、奥行40メートルで、表間口に比して裏間口と奥行が大きく、京の町屋の中でも最大級の規模を有する。主屋は木造2階建(一部3階)、桟瓦葺き。商家であるとともに、大名の宿泊所である公事宿(くじやど)を兼ねた特異な住宅である。外観上の特色は、防火のため外面をすべて漆喰で塗籠めとし、窓も虫籠窓(むしこまど)しか開けないことで、一般の京町屋とは異なった外観となっている。建立年代については、天明8年(1788年)の大火以後、18世紀末頃と推定される。

○文化財指定
当住宅は1944年(昭和19年)に国の重要文化財(当時の国宝保存法に基づく旧国宝)に指定された(指定名称は「小川家住宅」)。民家建築としては、大阪府羽曳野市の吉村家住宅(1937年指定)に続いて2番目の指定である。主屋、北土蔵、西土蔵の3棟が重要文化財に指定されている。1980年には土地1,272.32平方メートルが重要文化財に追加指定された。指定時の官報告示では、主屋の構造規模は以下のように記載されている。
居室部 桁行13.9m、梁間15.4m、切妻造段違、南面及び東面庇付
客室部 桁行8.9m、梁間14.7m、切妻造、北面及び西面各突出部及び庇付、東面庇附属
取合部 桁行5.9m、梁間8.9m、切妻造、南面及び北面庇付、東面居室部、西面客室部に接続
二階建、客室部一部三階、桟瓦葺

○小川家
当住宅の居住者である小川家の出自については、通説では伊予今治城主の小川祐忠(土佐守)の末裔であるとされる。祐忠は豊臣秀吉の没後、武士をやめて近江高島郡今津に住んでいたが、その子の千橘が、寛文10年(1670年)に伯父を頼って上洛し、萬屋平右衛門を名乗って米両替商を営んだという。その後、7代目平右衛門の時から薬種商を兼業したという。二条城に近いこの界隈には町奉行所、京都所司代などの役所が所在したことから、小川家ではいつの頃からか、これらの役所を訪れる諸国の大名などを宿泊させるようになり、「陣屋」の称が生じたという。なお、小川祐忠を当家の祖とすることについては古文書の裏付けを欠き、確証はないとする説もある。また、小川家の祖については奈良の春日社の神官の出であるとする別伝もある。

○建築
当住宅は前述のように奥行が深く、小部屋を多数設けていて、間取りは複雑である。もとは大宮通に面して、つし2階(厨子2階)付きの店舗棟が存在したが、これは大正天皇の大典の際に取り壊され、その奥に建つ居室部と客室部が現存している。ただし、居室部南側の玄関や台所の部分も大正期に改造を受けている。東西に細長い主屋の手前(東側)が居室部、その西奥に接続するのが客室部で、それぞれの部分には以下の諸室が設けられている。
居室部1階 内玄関、土間、台所、板間、玄関の間(6畳)、女中部屋(長5畳)、居間(6畳)、囲いの間(5畳)、北の間(3畳)、茶室(2畳)、仏間(2畳)
居室部2階 前六畳(6畳)、前三畳(3畳)、菊の間(3畳と4畳半)、雁の間(6畳)、囲の間(4畳半)、茶室(2畳)
客室部1階 八影の間(6畳)、お能の間(8畳)、大広間(15畳)、春日の間(6畳)、皆如庵(1畳台目茶室)、水屋(2畳)、脱衣場(3畳)、湯殿
客室部2階 赤壁の間(6畳と8畳)、蘇鉄の間(苫船の間、8畳)、長五畳(5畳)、三階居間(3畳)、三階茶室(3畳)(「三階居間」と「三階茶室」は、他の部屋よりやや高い位置にある。)
大広間(15畳)は、主屋西端のもっとも奥まったところに位置する。北側に床の間を設け、その右に床脇(天袋、違棚付き)、左に地袋を設ける。さらに地袋から矩折りの西側には付書院がある。天井は桐材の格天井である。以上のように、床、棚、付書院を備えた書院造を基調としつつ、長押に打たれた磁器製の釘隠、室境の桑材の欄間に施された捻梅(ねじりうめ)の透彫など、随所に数寄屋風の意匠がみられる。天井裏には武者溜があり、そこから室内の様子を窺えるようになっているが、下から見上げると明かり取りの天窓にしか見えない。天袋の絵は狩野永真筆、地袋の漆絵は小川破笠の作といわれている。
大広間の西にある「お能の間」は8畳間であるが、畳を上げるとその下は檜板張りになっており、能舞台として使用できるようになっている。床下には音響効果を高めるため、4つの甕がいけられている。室の東側と西側の障子は、段襖と称する特殊なもので、紙張の部分と板張の部分とが交互に段替わりになっている。これは、演能時や夜間には板張の部分をずらして紙張の部分を覆うことによって普通の板戸に変化する。脇の廊下は能舞台の橋掛の役を果たし、壁には橋掛と同様、松が描かれている。大広間から廊下を隔てて北側にある「春日の間」(6畳)は、床の間の壁貼付絵として三笠山を描く。これは小川家の出自が春日神官であったという家伝にちなむものである。2階の西側のもっとも奥にある「蘇鉄の間」(8畳)は「苫船の間」とも呼ばれ、天井の形状など、室全体が屋形船に見立てられている。以前はこの室の下に池があったという。この建物は全体に防火、防犯を重視した造りになっている。外壁は前述のとおり軒裏まで漆喰で塗籠め、窓は虫籠窓に土戸とするが、これらは防火上の配慮である。垂木先には鉤状の金具が取り付けられており、隣家が火災の場合にはここに濡れ筵を掛けて延焼を防ぐ。邸内には12か所の井戸があり、各井戸は相互に銅製の樋で繋がっていて、1つの井戸から大量の水を汲み出しても枯れない仕組みになっている。防犯面の工夫としては、前述の武者溜のほか、1階湯殿前廊下の吊り階段(平素は吊り上げておく)、1階仏間奥の隠し階段、大広間付近の二重になった廊下などがある。[16]

○所在地
〒604-8316京都市中京区三坊大宮町一三七番地

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2018-04-28(Sat)

八坂神社

八坂神社は、京都府京都市東山区祇園町北側にある神社。二十二社(下八社)の一社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。全国にある八坂神社や素戔嗚尊を祭神とする関連神社(約2,300社)の総本社である。通称として祇園さんとも呼ばれる。7月の祇園祭(祇園会)で知られる。

○社名について
元の祭神であった牛頭天王が祇園精舎の守護神であるとされていたことから、元々「祇園神社」「祇園社」「祇園感神院」などと呼ばれていたものが、慶応4年=明治元年(1868年)の神仏分離令により「八坂神社」と改められた。

○概要
京都盆地東部、四条通の東のつき当たりに鎮座する。境内東側にはしだれ桜で有名な円山公園が隣接していることもあって、地元の氏神(産土)としての信仰を集めるとともに観光地としても多くの人が訪れている。正月三が日の初詣の参拝者数は近年では約100万人と京都府下では伏見稲荷大社に次ぐ2位となっている。また東西南北四方から人の出入りが可能なため、楼門が閉じられることはなく伏見稲荷大社と同じように夜間でも参拝することが出来る(防犯のため、監視カメラ設置。また、夜間でも有人の警備は行われている)。

○祭神
現在の祭神は以下の通り。
主祭神中御座:素戔嗚尊 (すさのおのみこと)
東御座:櫛稲田姫命 (くし(い)なだひめのみこと) - 素戔嗚尊の妻
西御座:八柱御子神 (やはしらのみこがみ) - 素戔嗚尊の8人の子供(八島篠見神、五十猛神、大屋比売神、抓津比売神、大年神、宇迦之御魂神、大屋毘古神、須勢理毘売命)の総称
配神(東御座に同座) 神大市比売命、佐美良比売命 - いずれも素戔嗚尊の妻
(西御座に御座) 稲田宮主須賀之八耳神
明治時代の神仏判然令以前は、主祭神は以下の3柱であった。
中の座:牛頭天王 (ごずてんのう)
東の座:八王子 (はちおうじ)
西の座:頗梨采女 (はりさいにょ・ばりうねめ)
牛頭天王は起源不詳の習合神で祇園精舎を守護するとされ、日本では素戔嗚尊と同神とされていた。頗梨采女は牛頭天王の后神であることから素戔嗚の后である櫛稲田姫命と同一視された。櫛稲田姫命は方角の吉方(恵方)を司る歳徳神(としとくしん)と同一と見なされていた事もあり暦神としても信仰された。八王子は牛頭天王の8人の王子であり、暦神の八将神に比定された。
また、東御座には社伝に明確な記述が無い蛇毒気神(だどくけのかみ)が祭られている。この神は沙渇羅(さから)龍王の娘で今御前(第二婦人のこと)と呼ばれる。または、ヤマタノオロチが変化したものとも考えられている。

○歴史
社伝によれば、斉明天皇2年(656年)、高句麗から来日した調進副使・伊利之使主(いりしおみ)の創建とされる。牛頭天王は釈迦の生誕地に因む祇園精舎の守護神とされるが、実際にはインド、中国、朝鮮において信仰された形跡はなく、日本独自の神である。名は新羅の牛頭山に由来するのだという説があるが、これも定説にはなっていない。そして山城国愛宕郡八坂郷に祀り、「八坂造」の姓を賜ったのに始まるとする。しかし、上記の伊利之使主創建説は現存する歴史資料からは根拠に乏しいものと批判されている。戦後における祇園社の創祀についての先駆的な学術的研究は久保田収の「祇園社の創祀について」であり、これは今日においても一定の支持を得ている。久保田は同論文において史料を詳細に検討した結果、祇園社は貞観18年(876年)僧・円如が寺院を建立し、ほどなく祇園神が垂迹したものと結論づけている。なお、中世において吉田神道に採用され、江戸時代には通説化していた播磨国広峯遷座説については、平安時代の史料に全くあらわれず鎌倉時代以降に広峯社側から主張しはじめたとの文献検討の結果、これを否定している。祭神は当初は「祇園天神」または「天神」とだけ呼称されており、牛頭天王(およびそれに習合した素戔嗚尊)の名が文献上は出てこないことから、最初は牛頭天王・素戔嗚尊とは異なる天神が祭神であり、やがて(遅くとも鎌倉時代には)牛頭天王と素戔嗚尊が相次いで習合したものと考えられている。古くからある神社であるが、延喜式神名帳には記されていない。これは神仏習合の色あいが濃く当初は興福寺、次いで延暦寺の支配を受けていたことから、神社ではなく寺とみなされていたためと見られるが、後の二十二社の一社にはなっており、神社としても見られていたことがわかる。平安時代中期ごろから一帯の産土神として信仰されるようになり、朝廷からも篤い崇敬を受けた。祇園祭は、貞観11年(869年)に各地で疫病が流行した際に神泉苑で行われた御霊会を起源とするもので、天禄元年(970年)ごろから当社の祭礼として毎年行われるようになった。祇園社は当初は興福寺の末社であったが、10世紀末に戦争により延暦寺がその末寺とした。1070年には祇園社は鴨川の西岸の広大の地域を「境内」として認められ、朝廷権力からの「不入権」を承認された[5]。このころから祇園社は紀氏一族が執行家として世襲支配するようになる(宝寿院 (祇園社の社家)参照)。嘉禄3年(1227年)延暦寺は、法然の墓所を感神院の犬神人に申し付けて破却する。1384年に足利義満は、祇園社を比叡山から独立させた。だが、それで祇園社が幕府配下となったわけではなく、以降、祇園祭は経済的に力をつけていた京の町衆により行われるようになり、現在に至っている。慶応4年(9月8日に1月1日に遡って明治元年に改元)の神仏混交禁止により「感神院祇園社」の名称を「八坂神社」と改めた。近代社格制度のもと、明治4年(1871年)に官幣中社に列格し、大正4年(1915年)に官幣大社に昇格した。

○摂末社
()内は各社祭神。
・摂社
疫神社 祭神:蘇民将来
悪王子社 祭神:素戔嗚尊の荒魂
京都市下京区に「悪王子町」と「元悪王子町」と名の付く町があり、昔はこの町内に祀られていた。現代語の「悪」とは意味合いが少し違い、昔は「悪=強力」と言う意味合いもあった。明治10年(1877年)に八坂神社で祀られる様になった。冠者殿社 祭神:天照大御神との誓約時の素戔嗚尊の御気

・末社
北向蛭子社-祭神:事代主神
大神宮-祭神:天照大神・豊受大神
美御前社-祭神:宗像三女神(多岐理比売命・多岐津比売命・市杵島比売命)
大国主社-祭神:大国主神・事代主神・少彦名命
玉光稲荷社-祭神:宇迦之御魂神。玉光稲荷社権殿の「命婦稲荷社」と二社で一体とされている。
日吉社-祭神:大山咋神・大物主神
刃物神社-祭神:天目一箇神
厳島社-祭神:市杵島比売命
太田社-祭神:猿田彦命・宇受女命
大年社-祭神:大年社・巷社神
十社
五社

・御旅所(境外社)
四条御旅所 (四条京極南側)
祇園祭の7月17日から24日に神輿三基が安置される。祇園祭の期間以外は拝殿の東側は京土産を販売する「四条センター」として営業を行っている。2013年9月より店名を「Otabi Kyoto」に改名。三条御供社ごくうしゃ(又旅社、三条通黒門)
7月24日の還幸祭の折に神輿三基が安置される。大政所御旅所旧跡 (烏丸通仏光寺下ル)
7月15日に長刀鉾の長刀が収められ、翌16日に神剣拝戴の儀が行なわれる。
古くは「大政所御旅所」と「少将井(しょうしょうのい)御旅所」があり、前者には素戔嗚尊(大政所)と八王子が神幸し、後者には櫛稲田姫命(少将井の宮、少将井天王)が神幸していたが、1591年(天正19年)、豊臣秀吉の命によって四条京極の御旅所に統合された。大政所旧跡には小社が建てられ、現在でも毎年7月16日には長刀鉾の神剣拝戴の儀式が行われ、その周辺は大政所町といわれている。少将井御旅所の旧跡には天王社が建てられたが、1877年(明治10年)、京都御苑の宗像神社境内に遷された[11][12]。現在では烏丸通竹屋町下ル付近に少将井、車屋町通夷川に少将井御旅町の地名が残されている。

○主な祭事
1月1日 白朮祭 (おけら参り)
2月2日-3日 節分祭
3月17日 祈年祭(大祭)
6月15日 例祭(大祭)
7月1日-31日 祇園祭
9月~10月 中秋の名月の日 観月祭
11月3日(文化の日)舞楽奉納
11月23日 新嘗祭(大祭)
その他にも四季を通じて祭礼・神事が執り行われている。

○文化財
・重要文化財
建造物
楼門 - 明応6年(1497年)
西楼門とも称する。本殿の西方、四条通りの突き当たりに建つ。切妻造の楼門(2階建て門)。本殿 - 承応3年(1654年)
一般の神社では別棟とする本殿と拝殿を1つの入母屋屋根で覆った独特の建築様式をとり「祇園造」と言われる。末社蛭子社社殿 - 正保3年(1646年)
石鳥居 - 本殿南側の正面入口に立つ。正保3年(1646年)建立。寛文2年(1662年)の地震で倒壊後、同6年(1666年)に補修再建された。

・美術工芸品
木造狛犬
太刀-銘豊後国行平作。平安末期の豊後(大分県)の刀工・行平(ゆきひら)の作
太刀3口-各銘出羽大掾藤原国路金具御大工躰阿弥 祇園社御太刀 承応三甲午年九月吉日。江戸時代の刀工・出羽大掾国路(でわだいじょうくにみち)の作
鉦鼓(長承三年銘)1口(附 鉦鼓(無銘)1口)
紙本着色祇園社絵図
祇園執行日記9冊(附 祇園社記等59冊)
八坂神社文書(2,205通)89巻、40冊、1帖、1通
算額-元禄4年(1691年)長谷川鄰完奉納。絵馬堂にて復元額を展示

○現地情報
所在地京都府京都市東山区祇園町北側625番地

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壬生寺

壬生寺は、京都市中京区壬生にある律宗大本山の仏教寺院である。本尊は地蔵菩薩、開基は園城寺(三井寺)の僧快賢である。中世に寺を再興した融通念仏の円覚上人が創始したとされる「大念仏狂言」を伝える寺として、また新選組ゆかりの寺としても知られる。古くは地蔵院、宝幢三昧寺、心浄光院と号した。

○歴史
園城寺(三井寺)の僧快賢が、991年(正暦2年)に自身の母のために建立したとされる。京都では珍しい律宗(総本山は奈良・唐招提寺)寺院である。中世に融通念仏の円覚上人が中興。大念仏会の際に上演される重要無形民俗文化財の「壬生大念仏狂言」(壬生狂言)は円覚上人が始めたものと伝えられる。江戸時代後期の幕末には京都の治安維持を目的に活動した新選組(当初は壬生浪士組といった)の本拠が壬生村の八木家に置かれた。当寺境内は新選組の兵法調練場に使われ、武芸などの訓練が行われたという。その縁で境内には局長近藤勇の銅像や、新選組隊士の墓である壬生塚がある(近藤勇の墓とされるものは、当所以外にも会津若松市、三鷹市などに存在する)。当寺旧本尊の地蔵菩薩半跏像(鎌倉時代後期の作)は、「壬生地蔵」と呼ばれ信仰を集めていたが、1962年(昭和37年)7月25日、放火により本堂とともに焼失した。現在の本尊・地蔵菩薩立像は、火災後に本山の唐招提寺から移されたものである。

○境内
現在の本堂は1970年(昭和45年)の再建である。境内には他に大念仏堂(狂言舞台、重要文化財)、近藤勇銅像、壬生塚、千体仏塔(パゴダ様式の仏塔に1000体の石仏を円錐形に安置したもの)などがある。

○文化財
・重要文化財
木造地蔵菩薩立像(唐招提寺旧蔵、平安時代)
錫杖(しゃくじょう)
紙本墨画淡彩列仙図 長谷川等伯筆 六曲一双(左隻の一扇を欠く)
壬生寺大念仏堂(狂言舞台)(附 道具蔵、脇門、土塀2棟、棟札2枚)
典拠:2000年(平成12年)までに指定の国宝・重要文化財については、『国宝・重要文化財大全 別巻』(所有者別総合目録・名称総索引・統計資料)(毎日新聞社、2000)による。

・焼失した重要文化財
木造地蔵菩薩半跏像 旧本尊、鎌倉時代
木造四天王立像 鎌倉時代
金鼓 正嘉元年(1257年)銘 -「金鼓」は仏堂の軒先に吊るす「鰐口」のこと
以上3件は1962年の火災で焼失した。

・重要無形民俗文化財
壬生狂言
壬生六斎念仏踊り(指定名称は「京都の六斎念仏」)

・行事
壬生狂言毎年節分と春秋に演じられる無言劇。大念仏狂言(だいねんぶつきょうげん)とも呼ばれる。重要無形民俗文化財に指定されている。公開は2月の節分の当日と前日、4月29日から5月5日まで、及び10月の体育の日を含む3日間(年間12日間)[4]。詳細は「壬生狂言」を参照壬生六斎念仏踊り年中行事として、かつては毎年8月9日の精霊迎え火、16日の精霊送り火、23日の地蔵盆に壬生寺で上演されていたが、現在は9日にのみ実施されている。重要無形民俗文化財。詳細は「壬生六斎念仏踊り」を参照地蔵盆時の出開帳壬生寺は、地蔵菩薩を本尊とする寺として、地蔵盆の際に地蔵の石仏を貸し出す、俗称「レンタル地蔵」を行っていることでも知られる。京都でも新興住宅地などでは地域の地蔵がなく、地蔵盆が行えないことがある。この場合は宗教色を薄めた「夏祭り」とする所もあるが、地蔵を借りてきて地蔵盆を行うところもある。壬生寺の場合は、明治時代から京都各地の区画整理などに伴って祀れなくなった石仏が多数引き取られており、これを出開帳の形式をとって希望する各町に貸し出しているのである。

○所在地
京都府京都市中京区坊城通仏光寺上ル壬生梛ノ宮町31

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神泉苑

神泉苑は、京都市中京区にある東寺真言宗の寺院。本尊は聖観音・不動明王・弘法大師。二条城の南に位置し、元は平安京大内裏に接して造営された禁苑(天皇のための庭園)であった。境内に「恵方社」として「大歳神:歳徳神」を祀るが毎年大晦日の晩に恵方に祠の向きを変える点が他の神社仏閣と異なる(日本国内で毎年向きを変える「大歳神」は唯一ここだけに見られる祀り方であると伝えられる)。

○歴史
延暦13年(794年)の平安京遷都とほぼ同時期に、当時の大内裏の南に接する地に造営された禁苑であった。もともとここにあった古京都湖(古山城湖)の名残の池沢を庭園に整備したものと考えられ、当初の敷地は二条通から三条通まで、南北約500メートル、東西約240メートルに及ぶ、池を中心とした大庭園であった。史料に初めてその名が見られるのは『日本紀略』の記事であり、延暦19年7月19日(800年8月12日)、桓武天皇が行幸したという内容である。延暦21年(802年)には雅宴が催されたとあり、この頃から神泉苑は天皇や廷臣の宴遊の場となったとみられる。また、『日本後紀』には、嵯峨天皇が弘仁3年(812年)に神泉苑にて「花宴の節(せち)」を催したとあり、これが記録に残る花見の初出と考えられている。季節を問わずまたどんな日照りの年にも涸れることのない神泉苑の池には竜神(善女竜王)が住むといわれ、天長元年(824年)に西寺の守敏と東寺の空海が祈雨の法を競い、天竺の無熱池から善女竜王を勧請し空海が勝った。また空海以降も密教僧による雨乞いが何度も行われている。貞観5年(863年)に都に疫病が流行り、神泉苑で御霊会が行われた。貞観11年(869年)には神泉苑の南端(現在の八坂神社三条御供社の位置)に66本(当時の律令制度の国の数)の鉾を立てて祇園社から神輿を出し、現在の祇園祭の元になったと言われている。尚、現在でも京都を中心に祭典時に鉾を立てる神社が幾つか存在する。この鉾は剣鉾と言う。中世以降は荒廃し、慶長8年(1603年)、徳川家康が二条城を造営した際には神泉苑の敷地の大部分が城内に取り込まれて著しく規模を縮小した。神泉苑の水源も城の堀の水源の一つとして奪われた。筑紫の僧覚雅(快雅)が朝廷の許しを得て慶長12年(1607年)より元和年間(1615~1624年)に掛けて復興を図った。弘法大師との縁によりこの時より東寺真言宗の寺院(寺領四十石)となった。都名所図会で紹介される神泉苑は覚雅(快雅)による復興後である。神泉苑の境内には弁財天も祀られているが貞享2年(1685年)の京都案内誌「京羽二重」(水雲堂狐松子著)の中では弁財天廿九ヶ所の霊場のひとつとなっている。天明8年(1783年)の天明の大火で、堂塔社殿を焼失した。昭和10年(1935年)に国から文化財として「史跡」に指定される。平成26年(2014年)には善女竜王勧請1200年記念事業として法成池の水を55年振りに抜いて善女竜王社本殿等の解体・修復を行っている。伝承では源義経と静御前が出会った場と言われ、また神泉苑の池が京都市の東西に伸びる通りの一つ「御池通」の名前の由来であるとの説もある(異説あり)。二条城の南(押小路堀川東入ル)には昔の神泉苑の東端を示す石碑がある。これは京都市営地下鉄東西線に関わる工事の際に判明したものである。京都新聞は戦時中、1面コラムの名前を「神泉」としていた。おそらく神泉苑に由来すると思われる。

○境内
本堂
方丈
善女竜王社
恵方社
弁天堂(増運弁財天)
鎮守稲荷社(矢劔大明神)
鐘楼
法成就池、法成橋
平安殿

○文化財
境内-国の史跡
木造不動明王坐像-重要文化財

○年中行事
2月2日に星祭り、3日に節分祭が行われる。
5月2日-3日に神泉苑祭が行われる。前後して5月1日から5月4日にかけて、苑内の狂言堂で大念仏狂言が催される(平成26年(2014年)から、狂言の公開のみ11月の第1金曜から3日間に変更された)。京都では、壬生寺、清凉寺、引接寺(千本閻魔堂)と並ぶ念仏狂言の寺である。
7月24日の祇園祭・還幸祭では夕方18時30分頃に中御座の御神輿が渡御し迎え太鼓が奉納される。
平成26年(2014年)から、11月の第1金曜日から金土日の3日間、苑内の狂言堂で大念仏狂言が催される。
12月31日に住職による祈祷の後「歳徳神(としとくじん)」の方違えが行われる(例年22時30分前後)。
※現在の狂言堂のある場所は昭和中期まで「神泉幼稚園」として幼稚園の教室があったが都市中心部の子供の減少に伴い廃園となった。

○アクセス
JR西日本山陰本線(嵯峨野線)・京都市営地下鉄東西線二条駅より東へ徒歩で約10分
京都市営地下鉄東西線二条城前駅下車、西へ徒歩で約2分
阪急電鉄京都線大宮駅、又は京福電気鉄道嵐山本線四条大宮駅から北へ徒歩で約10分
京都市営バス「神泉苑前」、京都バス「神泉苑」下車すぐ
※参拝者用駐車場は無し。東側の大宮通にコインパーク数か所有り

○所在地
京都府京都市中京区御池通神泉苑町東入ル門前町

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二条城

二条城は、京都市中京区二条通堀川西入二条城町にある、江戸時代に造営された日本の城である。京都市街の中にある平城で、後述する足利氏、織田氏、豊臣氏、徳川氏によるものがあるが、現在見られるものは徳川氏によるものである。また、後の近代において二条城は京都府の府庁や皇室の離宮として使用された。城内全体が国の史跡に指定されている他、二の丸御殿(6棟)が国宝に、22棟の建造物と二の丸御殿の障壁画計1016面が重要文化財に、二の丸御殿庭園が特別名勝に指定されている。さらに1994年(平成6年)にはユネスコの世界遺産(世界文化遺産)に「古都京都の文化財」として登録されている。徳川家康の将軍宣下に伴う賀儀と、徳川慶喜の大政奉還が行われ、江戸幕府の始まりと終わりの場所でもある。

○歴史・沿革
・さまざまな二条城
日本の歴史書において「二条城」と呼ばれることのあるものは複数ある。当時の二条大路は朱雀大路が廃れた後、都一の大路であり、足利尊氏から義満まで3代の将軍が二条に屋敷を構えたため、将軍家の屋敷を「二条陣」または「二条城」といった。室町時代に平安京の左京にあった唯一の城である。ちなみに右京にも唯一、「西院城(さいのしろ)」があった。二条城と西院城を平安京の両城ともいう。
1.室町幕府13代将軍足利義輝の居城。「二条御所武衛陣の御構え」。
2.室町幕府15代将軍足利義昭の居城として、織田信長によって作られた城。二条通からは遠く離れていた。ただし平安京条坊制の「二条」(二条大路と中御門大路(現椹木通)に挟まれた地域)には城域の南部分がわずかに含まれる。義輝の「二条御所」とともに「二条」の名を冠して呼ばれるのはこのためと考えられる。
3.織田信長が京に滞在中の宿所として整備し、後に皇太子に献上した邸「二条新御所」。二条通にも面さず条坊制の二条にも属していない。二条家の屋敷跡に設けられたための呼称と考えられる。
4.徳川家康が京に滞在中の宿所として造った城。
現存する二条城は4の城である。1と2は同じ場所に造られたが連続性はない。1を「二条城」と称した例は当時から現代に至るまで無いが2の前史としてここに紹介しておく。2と3は同じものと見る説もあるが、『信長公記』その他の史料、及び発掘結果、残存地名などを根拠として別のものとするのが現在では通説となっている。2及び3について「二条城」と呼ぶのは4.が完成した江戸時代以降のことであり、4と区別する趣旨で「旧二条城」「二条古城」などと呼ばれることもある。この節では、近世の二条城である4.の前史として1の「武衛陣の御構え」と2と3の「二条城」について略説する。

・足利義輝の二条御所武衛陣の御構え
永禄8年(1565年)、戦国乱世のただなかにあって義輝は幕府の重鎮であった斯波氏の屋敷跡に自らの城を築いた。武衛とは斯波氏の職名を由来とし、その屋敷は洛中洛外図にも「ぶえい」として登場する。現在の旧二条城跡地の地名が「武衛陣町」であるのはこれを由来としている。堀もあったが完成寸前(「京公方様御館の四方に深堀高塁長関、堅固の御造作有り。未だ御門の扉以下は出来(しゅったい)せず」『足利季世記』)に三好三人衆らの襲撃を受け、義輝は落命した(永禄の変)。変後、跡地には真如堂が移された。

・足利義昭の二条城
義輝の弟・義昭は織田信長の武力を後ろ盾として永禄11年(1568年)に上洛、将軍就任後は六条本圀寺を居所としていたが、翌12年(1569年)、三好三人衆による襲撃を受けた(本圀寺の変)。この時は京都にいた信長家臣団および義昭の側近らの奮戦により防戦に成功するが、この報を受けた信長はさらに防備の整った城の必要性を認識し、義昭のために築城をすることを決めた。場所は義輝の武衛陣の城のあった地を中心に北東に拡張して約400メートル四方の敷地に2重の堀や3重の「天主」を備える城郭造の邸宅とした。信長自身が普請総奉行として現地で陣頭指揮を執り、御殿などの建築を統括する大工奉行には村井貞勝と島田秀満が任じられた。建物の多くは本圀寺から移築され(フロイス『日本史』)さらには屏風や絵画などの什器までも本圀寺から運び込まれ、細川氏一族で分家・細川典厩家の細川藤賢邸から、文字通り「鳴り物入り」で名石「藤戸石」が搬入された。築城は約70日という短期間で終え、その年の4月に義昭はここに本拠を移した。この城の石垣には京都中から集められた墓石や石仏も使われた。山科言経は「石くら」に驚嘆している。石くらとは石垣のことで、この城が初めて本格的に石垣を積んだ城であったことを示している。周辺からは金箔瓦も発掘されており急ごしらえにしては豪壮な殿舎であったと考えられている。当時は「武家御所」「武家御城」「公方様御構へ」などと呼ばれていた。なお元亀3年(1572年)3月、信長は義昭の強い勧めもあってこの城の北方、武者小路辺に自らの屋敷を着工している(未完成)。ところが義昭と信長の関係は徐々に悪化し、元亀3年に義昭の信長追討令に応じた武田信玄が西上を開始し三方ヶ原の戦いで勝利を収めたのを知ると、翌天正元年(1573年)3月に義昭は二条城において信長に対し挙兵する。信長は上京の町屋を焼き払い二条城を包囲するが、城自体に対しては攻撃を控え正親町天皇の勅命を得て、和議が成立する。しかし、7月に再び義昭は宇治の槇島城において挙兵する(槇島城の戦い)。この時、二条城には公家の日野輝資と高倉永相、義昭の側近で幕臣である伊勢貞興と三淵藤英が守備のため置かれたが、織田軍に包囲されると一戦も交えず降伏した。この際に御殿などは兵士たちによって、破壊されたと伝えられる。この直後、槙島城の義昭も降伏し畿内から追放され、室町幕府は実質的に滅ぶことになる。二条城に残った天主や門は天正4年(1576年)に解体され、安土へ運ばれ築城中の安土城に転用された。昭和50年(1975年)から昭和53年(1978年)まで京都市営地下鉄烏丸線建設に先立つ烏丸通の発掘調査が行われ、この信長の二条城の石垣および2重の堀の跡が確認された。この際発掘された石垣にあった石仏が京都文化博物館及び西京区の洛西竹林公園内に展示されている。また、石垣の一部が京都御苑椹木口の内側及び現二条城内に復元されている。また、平安女学院の敷地の一角に「旧二條城跡」と彫られた石碑と説明板(「義昭二条城=二条新御所」説を記す)が立っている。

・織田信長・誠仁親王の「二条新御所」
織田信長が烏丸-室町の御池上る付近に設けた城館。信長は天正4年(1576年)4月に京に滞在した際、二条通南側の妙覚寺(現在地とは異なる)に宿泊したが、寺の東側に隣接する公家の二条家の邸宅の庭の眺望を気に入った。二条邸(二条殿・押小路烏丸殿)は当時、「洛中洛外図屏風」に必ず描かれるほどの名邸であった。前住者の二条晴良・昭実(妻は信長の養女)父子は直前に信長のはからいにより報恩寺の新邸に移徙して(『言経卿記』)空き家となっていたので、信長が上洛した時の宿所とするため、この旧二条邸を譲り受けて、改修を京都所司代の村井貞勝に命じた。翌年の閏7月に信長は初めて入邸、8月末には改修が終わり、以後2年ほどはこの「二条御新造」(「武家御城」とも)に自ら居住し、京の宿所(本邸)として使用する。天正7年(1579年)には、この屋敷を皇太子誠仁親王に献上。同年11月22日に、誠仁親王とその皇子である五の宮(後の邦慶親王)がこの「二条新御所」に移徙した。天正10年(1582年)、本能寺の変が起きると、妙覚寺にいた信長の嫡男・信忠主従はそれを知るや本能寺の信長と合流するため出撃しようとしていた。しかし、そこに村井貞勝父子らが駆けつけ、本能寺が既におちた旨を伝え、防御能力に優れた二条新御所へ移ることを進言した。信忠は誠仁親王らを二条新御所から出した上でここに籠城し、これを攻囲する明智光秀勢と奮戦するが、信忠を始め貞勝ら60余名が討ち死にし、二条新御所も隣接する妙覚寺と共に灰燼に帰した[要出典]。現在は両替町通御池上ルに「此附近 二条殿址」、室町通御池上ルに「二条殿御池跡」と彫られた石碑が建っている。付近には「二条殿町」「御池之町」及び本能寺の変ゆかりの「上妙覚寺町」「下妙覚寺町」の地名が残る。なおこの「御池」が現在の御池通の名前の由来となった。跡地には、変の直後、秀吉により信忠の菩提を弔うため大雲院が創建されたが、間もなく秀吉の京都改造に伴い寺町四条下ルに移転させられた。この二条新御所は義昭の二条城跡に設けられたとする説があるが、山科言経が天正4年9月13日(1576年10月5日)に「右大将家二条新邸を見物」、翌14日(10月6日)には「武家古城を見物」し石垣の取り壊し・搬出されている様子を目撃したことが『言経卿記』に記されているから、明らかに別の場所にあったと考えられる。また誠仁親王当時、禁裏「上の御所」に対し「下の御所」と呼ばれていたから二条新御所は禁裏南方にあったと思われ、御所西にあった義昭の二条城跡に築かれたとするのは不自然である。さらに本能寺の変の際、信忠は陣を妙覚寺から二条御所へ移しているから両者は近傍に在ったと推測される[注釈 4]。同じ時、信忠恩顧の小沢六郎三郎は二条新御所に駆けつけたが明智軍に囲まれていたため「町通り二条(二条通のこと)」へ「上が」って御構えに駆け込んだと『信長公記』に記されているから、二条新御所は二条通南方にあったことが明らかであり、この点からも義昭の二条城とは別であったと判断できる。また、先に触れたように乱後、この地に信忠の菩提寺大雲院が建築されていることも有力な傍証となる。

・羽柴(豊臣)秀吉の「二条第・妙顕寺城」
羽柴秀吉(豊臣秀吉)も二条に城を構えている。秀吉は信長在世中にも二条御新造の隣接地に屋敷を有していたが、天正8年(1580年)に信長によって没収されてお気に入りであった前関白・近衛前久に献上されている(『兼見卿記』)。皮肉にも本能寺の変の際、近衛家家人の逃げ出したこの屋敷を占拠した明智軍がここから二条新御所を攻撃したという話があり(『明智軍記』)、やがてそれに尾ひれが付いて前久が光秀に加担したとの風説が流された。その後天正11年(1583年)、本拠地を大坂に定めた秀吉は京都における拠点として「二条第」を構えた。妙顕寺を移転させその跡地に建設されたことから「妙顕寺城」とも呼ばれる。周囲に堀を巡らし天守もあった。聚楽第完成まで秀吉の政庁として使われ普段は前田玄以が在城した。所在地は二条城の東200メートル、現中京区小川押小路付近、地名に「古城(ふるしろ)町」「下古城(しもふるしろ)町」をのこしている。天正遣欧少年使節を引き連れて聚楽第の秀吉を訪ねた巡察使アレッサンドロ・ヴァリニャーノは前日に豪華な「秀吉の旧屋敷」に泊ったとあるが、位置、時期から言ってこれがこの二条第であった可能性が高い。

・江戸時代の二条城
創建
幕府は二条城と称したが、朝廷側はこれを二条亭と呼んだ。
慶長6年(1601年)5月:関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は上洛時の宿所として大宮押小路に築城を決め、町屋の立ち退きを開始、12月に西国諸大名に造営費用および労務の割り当てを行った(天下普請)。造営総奉行に京都所司代板倉勝重、作事(建築)の大工棟梁に中井正清が任じられた。
慶長7年(1602年)5月:御殿・天守の造営に着工。
慶長8年(1603年)3月:落成。但し、天守は慶長11年(1606年)に完成。
慶長8年(1603年)2月12日:家康は伏見城において征夷大将軍補任の宣旨を受け、3月12日に竣工間もない二条城に入城、同月25日、室町幕府以来の慣例に基づく「拝賀の礼」を行うため、御所への行列を発した。それに続き、27日に二条城において重臣や公家衆を招いて将軍就任の祝賀の儀を行った。この将軍就任の手順は2年後の慶長10年(1605年)に家康の息子の2代将軍秀忠が、元和9年(1623年)に孫の3代将軍家光が踏襲するが、曾孫の4代将軍家綱以降は行われなくなった。
慶長16年(1611年):二条城の御殿(現在の二の丸御殿)において家康と豊臣秀頼の会見(二条城会見)が行われる。この時、家康は秀頼の成長ぶりに驚き徳川氏の天下が覆されるかもしれないとの危機感を抱き、豊臣氏を滅ぼすことを決意したともいわれている。
慶長19年(1614年):大坂冬の陣が勃発。二条城は大御所(家康)の本営となり、伏見城から出撃する将軍秀忠の軍勢に続き、家康は二条城から大坂へ駒を進めた。
元和元年(1615年):大坂夏の陣においては二条城に火をかけ、混乱の中で家康を暗殺しようとした陰謀が明らかとなり、徳川方についていた古田織部の家臣木村宗喜が捕縛された。このため織部は切腹、家財没収となる事件もあった。
元和5年(1619年):秀忠は娘・和子の後水尾天皇への入内に備え、二条城の改修を行う。この時の縄張(基本設計)は秀忠自らが藤堂高虎と共に行った(秀忠は2つの案から一方を最終選定しただけだが、将軍自らの縄張りであると高虎に持ち上げられたのだった)。
元和6年(1620年)6月18日:徳川和子は二条城から長大な行列を作り、後水尾天皇のもとへ入内した。

行幸
寛永元年(1624年):徳川家光が将軍、秀忠が大御所となった翌寛永元年から、二条城は後水尾天皇の行幸を迎えるため大改築が始まった。城域は西に拡張され、天守も拡張された西側に位置を変え、廃城となった伏見城の天守を移築した。作事奉行には小堀政一、五味豊直(後の京都郡代)が任じられる。尾張藩や紀伊藩などの親藩・譜代の19家が石垣普請を担当した。
寛永3年(1626年):行幸は寛永3年9月6日(1626年10月25日)から5日間に渡っておこなわれ、その間舞楽、能楽の鑑賞、乗馬、蹴鞠、和歌の会が催された。この行幸が二条城の最盛期である。行幸のために新たに建てられた行幸御殿は上皇となった後水尾院の御所に移築、その他多くの建物が解体撤去された。
寛永11年(1634年)7月:秀忠死後、家光が30万7千の兵を引き連れ上洛し、二条城に入城したのを最後に二条城が将軍を迎えることは途絶え、幕末の動乱期までの230年間、二条城は歴史の表舞台から姿を消す。
その230年の間に暴風雨や地震、落雷で徐々に建物は破損し、老朽化する。寛延3年(1750年)には落雷により天守を焼失。さらに京の町を焼き払った天明8年(1788年)の大火の際には、飛び火が原因で本丸御殿、隅櫓などが焼失した。破損部分に関しては修理が行われたが、失した建物については再築されることなく、幕末を迎える。
寛永2年(1625年):二条城には、将軍不在の間の管理と警衛のために二条城代と二条在番が設置された。
元禄12年(1699年):二条城代が廃止され、その職務は二条在番が担当することとなった。
文久2年(1862年)閏8月:交代制の二条在番は廃止され、それに代わって常勤制の二条定番が設置された。なお、朝廷の監視および折衝を担当する京都所司代は二条城の北に邸を構えそこで政務を執っていたため、将軍不在の二条城は幕府の政庁としては全く使用されなかった。

幕末
万延元年(1860年):京都地震が発生し、御殿や各御門、櫓などが傾くなど、大きな被害を受けた。
文久2年(1862年):14代将軍徳川家茂の上洛にそなえ、荒れ果てていた二条城の改修が行われる。二の丸御殿は全面的に修復し、本丸には仮御殿が建てられた。
文久3年(1863年)3月:家茂は朝廷の要請に応えて上洛をする。
慶応元年(1865年):家茂は再度上洛し二条城に入るが、すぐに第二次長州征伐の指揮を執るため大坂城へ移る。しかしここで病に倒れ、翌慶応2年(1866年)夏に死去する。
慶応2年(1866年):幕閣によって次の将軍は一橋慶喜と決定されるが、慶喜は就任を拒絶。幕府関係者のみならず朝廷からの度重なる説得の末、ようやく12月に二条城において15代将軍拝命の宣旨を受ける。
慶応3年(1867年)9月:慶喜が宿所を若狭小浜藩邸から二条城に移す。10月には大政奉還、将軍職返上、12月には朝廷より辞官納地命令が二条城に伝達される。この時二条城には旗本を中心とする徳川氏直属の兵約5000、会津藩士約3000、桑名藩士約1500が集結しており、朝廷を操る薩摩藩の挑発に対し激昂していた。軍事衝突を避けるため、慶喜は二条城からこれらの兵を連れて大坂城へ向かう。二条城は若年寄永井尚志と水戸藩士約200名が守備のため残った。しかし命令系統の混乱から別に二条城守備の命を受けた新選組が到着し、水戸藩士との間で押し問答になる。この件は永井の機転で、新選組が伏見奉行の守備に回ることで解決した。
慶応4年(1868年)1月:鳥羽・伏見の戦い。大坂に召還された尚志に代わり、二条城は水戸藩士・梅沢孫太郎が留守役となっていたが、1月5日(1月29日)に朝廷(新政府)の命を受けた議定・徳川慶勝に引き渡され、太政官代が設置された。閏4月に太政官代は宮中に移転した。

近現代
明治の頃の二条城明治3年(1870年):東京奠都後、二条城は留守官の管轄下に置かれる。
明治4年(1871年):二の丸御殿は京都府庁舎となる。
明治6年(1873年):陸軍省の所管に移された。
明治17年(1884年):宮内省の所管となり「二条離宮」と改称した。
明治18年(1885年):京都府の新庁舎が完成し移転した後、二の丸御殿の修理が明治25年(1892年)まで行われる。
明治26年(1893年)-27年(1894年):京都御苑の今出川門脇に位置する旧桂宮邸を本丸へ移築し、本丸御殿とする。
大正4年(1915年):大正天皇即位の儀式である大典の饗宴場として二条城二の丸が使用され、それに伴い南門や二の丸御殿の附属建物が増築される。
昭和14年(1939年):宮内省より京都市に下賜。それ以来「元離宮二条城」という名称となる。
第二次世界大戦後、GHQの意向で二の丸北側にテニスコートが作られたが、昭和40年(1965年)に庭園に変えられた。
平成18年(2006年)4月6日:日本100名城(53番)に選定された。
平成23年(2011年)度から、国宝の二の丸御殿など文化財建造物を中心に城全域の修理や整備を行う予定で一口募金を募っているが、応募は市の期待を大きく下回っている。
平成25年8月、修理の終わった唐門で天皇家の家紋(菊紋)の下に徳川家の家紋(葵の紋)があったと発表された。城内の瓦などでは葵の紋が削り取られている個所もあり、明治に時代が変わり天皇中心の政治に変わっていった名残だと推測されている。
平成27年2月、寺社連続油被害事件で被害に遭う。
平成27年3月、城内台所の間で将棋電王戦が行われた。
東映京都撮影所や京都映画撮影所からは最も近い場所にある城であるが、後述する通り天守が焼失しているなどのため時代劇の城のシーンのロケ地としてはあまり用いられないが、現代ドラマ等のロケ地としてはしばしば用いられている。時代劇で城のシーンのロケーションとしては、より遠方の彦根城や姫路城のほうがより用いられることが多い[要出典]。

○縄張
・立地
二条城はかつて平安京の大内裏であった場所の南東端とその南にあった禁園(天皇の庭園)である「神泉苑」跡とにまたがる地にある。東西約500メートル、南北約400メートル、ほぼ矩形だが厳密には東側から見て凸型となっている。南北の幅が狭くなっている西側部分が徳川家光の時代に行われた寛永の大改修によって拡張された部分で、家康による創建時は現在の東側半分(二の丸)のみであった。家康がこの地を選んだ理由は不明だが、この地が比較的人家がまばらであったこと(それでも数千軒が取り壊された)が考えられる。そのほか、信長の二条新御所と秀吉の妙顕寺城が並ぶ東西のラインと秀吉の聚楽第から真南に延ばしたラインの交差する場所、いわゆる聖なるラインの交わる場所であったことが注目される。特に聚楽第の存在は大きく、共に堀川西域に立ち御所に向けて門を開けている様子は家康が聚楽第を意識していたことを明瞭に示している。

・縄張
縄張の形式は本丸の四方を二の丸で取り囲む「輪郭式」に分類されるが、本丸が中央より西寄りに配されている。本丸は約150メートル四方のほぼ正方形であり、本丸と二の丸の間には内堀が、二の丸の周りには外堀が造られている。二の丸は本丸の北と南にある仕切門によって東西に分かれている(この西側部分を「西の丸」と呼ぶ資料もある)。家康による創建時は現在の二の丸東側部分が本丸であり、本丸のみで構成される「単郭式」であった。大手門前の広場と堀川通を隔てて堀川が流れているが、総郭とまでは言えないものの堀川が第一防御線として想定されていた可能性はある。実際、江戸時代には西堀川通(=現堀川通)の南北に通行を妨げる「釘抜き」が設けられ、大手門前の広場に町民は立ち入ることができなかった。なお家康による第1期二条城の絵図面の類は見つかっておらず、その内部の様子はよくわからない。二条城の敷地は、現在の京都市街にもほぼ受け継がれている平安京の町割りに対して時計回りに約3度の傾きがある。これは、宣教師によって日本にもたらされた方位磁石を普請の際に用いたためのとの説があるが、証拠はない。もしそうなら、南北が明瞭な当時の京都でなぜわざわざ磁石を使ったのかという疑問が新たに生じる。聚楽第跡周辺の街路が同様に数度の傾きを持つことから、この傾きを作ったのは秀吉で、家康がその傾きを継承した可能性もあるが、これにも確証がない。将軍滞在の城としては規模も小さく防御能力に問題がありそうだが、家臣の疑問に対し家康は「一日二日も持ちこたえれば周辺から援軍が来る」「万が一この城が敵の手に落ちたら堅城だと取り返すのに手間がかかる」と答えたと伝えられる。

○建造物
外部との出入り口としての城門は東西南北に1つずつある。ただし、南門は1915年(大正4年)に大正天皇の大典に備え新たに造られたもので、本来の城門ではない。正門は堀川通に面した東大手門(櫓門)である。西門(埋門)と前述の南門は外堀を渡る橋がなく使用されていない。北大手門(櫓門)も普段は閉鎖されている。また、この他に城内には5つの城門がある。二の丸を東西に分ける北中仕切門と南中仕切門、二の丸と本丸を結ぶ通路への入り口となる鳴子門と桃山門、その通路から内堀を渡った本丸への入り口となる櫓門である。なお東大手門は現在創建時と同じく櫓門となっているが、後水尾天皇の行幸を仰ぐ際、上から見下ろすのは不敬として一重門に変えられた。行幸後には再び櫓門に戻された。二の丸の中心的建造物である二の丸御殿は、東大手門から入って正面の西方に建つ。御殿は築地塀で囲まれていて、正門である唐門は塀の南側にある。それをくぐると正面に二の丸御殿の玄関にあたる「車寄」が見える。二の丸御殿は手前から順に「遠侍」(とおざむらい)、「式台」、「大広間」、「蘇鉄の間」、「黒書院」、「白書院」と呼ばれる6つの建物が雁行に並び、廊下で接続され一体となっている。又、当初柱の銅版は金箔押しであって、現在現存している物より遥かに華やかなものであった。大広間の西側、黒書院の南側に日本庭園がある。遠侍の北側には「台所」と配膳をするための「御清所」と呼ばれる建物がある。現在、檜皮葺となっている唐破風車寄の屋根は、明治修理により瓦葺きから檜皮葺となったものである。本丸御殿は御所の北にあった旧桂宮邸(1847年建築)を1893年(明治26年)から1894年(明治27年)にかけて移築したもので、徳川家の二条城とは本来無関係の建物である。過去には春と秋に期間限定で公開されていたが、耐震性の不足が判明したため2007年(平成19年)春を最後に公開を中止して以降、内部は公開されていない。もともとあった京都御苑内の敷地には、築地塀と表門と勅使門、また庭園や池も現存している。本丸御殿の南には、洋風庭園がある。

○庭園
・二の丸庭園
別名「八陣の庭」。小堀遠州の代表作として挙げられることも多い桃山様式の池泉回遊式庭園[注釈 6]である。池には3つの島が浮かぶ。池の中央やや北よりにもっとも大きい蓬莱島があり、その北に亀島、南に鶴島がある。亀島は亀の形に、鶴島は鶴の形に石が組まれている。蓬莱島は亀島と共に見えるアングルからは鶴の形に、鶴島と共に見えるアングルからは亀の形に石が組まれていて、常に鶴亀の一組を表現する趣向となっている。池の北西部には、二段の滝がある。池の南に広がる芝生の部分は、寛永の行幸の際には行幸御殿が建てられていた場所であり、こちら側が庭園の第1正面となる。第2正面は東(大広間)側、第3正面は北(黒書院)側という三正面式の設計である。

・本丸庭園
本丸御殿が移築された後に作庭が始まり、1896年(明治29年)に完成した洋風庭園。日本庭園と異なり、池や枯山水ではなく、芝生と植樹を中心とした回遊式の庭園である。

・清流園
二の丸の北大手門付近に1965年(昭和40年)に作られた和洋折衷庭園。

○文化財
・世界遺産
古都京都の文化財を構成する17の遺産の1つとして、世界遺産に平成6年(1994年)12月に登録された。

・国宝
二の丸御殿 6棟-1952年(昭和27年)3月29日、文化財保護法に基づく国宝に指定。 遠侍及び車寄
式台
大広間
蘇鉄之間
黒書院(小広間)
白書院(御座の間)(附 附属の間、黒書院白書院間渡廊)

・重要文化財
城が宮内省から京都市に移管された後の1939年(昭和14年)10月28日に上記二の丸御殿の6棟を含む24棟が国宝保存法に基づく「国宝」(旧国宝)に指定され、1944年(昭和19年)に本丸御殿4棟が追加指定された。その後、1950年(昭和25年)の文化財保護法施行に伴い、旧国宝はすべて重要文化財として指定されたものとみなされることとなった。
建造物本丸御殿(旧桂宮邸) 玄関
御書院
御常御殿
台所及び雁之間
二の丸御殿 唐門
築地
台所
御清所(附 廊下)
本丸櫓門(附 袖塀(南方・北方))
東大手門(附 多門塀(外面南方、外面北方、内面南方、内面北方))
北大手門(附 多門塀(外面東方、外面西方、内面東方、内面西方))
西門(附 多門塀)
鳴子門(附 袖塀)
桃山門
北中仕切門
南中仕切門
東南隅櫓(附 多門塀(西方))
西南隅櫓(附 多門塀(北方、東方))
土蔵(米蔵、二の丸御殿北方)
土蔵(北米蔵)
土蔵(南米蔵)
東南隅櫓北方多門塀
絵画二条城二之丸御殿障壁画 954面(附62面) - 1982年(昭和57年)6月5日指定。

○現地情報
所在地-京都市中京区二条通堀川西入二条城町541
交通 地下鉄-京都市営地下鉄東西線二条城前駅徒歩1分。
バス-京都市バス 9・12・50・67・101系統「二条城前」バス停下車すぐ。京都市バス 15系統・京都バス 61・62・63・64系統「堀川御池」バス停下車徒歩2分。京都市バス 10・93・202・204系統「堀川丸太町」バス停下車徒歩6分。
入城料金-一般600円、中学生・高校生350円、小学生 200円 展示・収蔵館入館料 - 小学生以上100円
開城時間-8時45分-16時(閉城17時) 二の丸御殿観覧時間-8時45分-16時
展示・収蔵館開館時間-9時-16時45分(受付は16時30分まで)
休城日-12月26日-1月4日、毎年12月・1月・7月・8月の毎週火曜日(当該日が休日の場合、その翌日を休城日とする)

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2018-04-27(Fri)

平野國臣殉難の地

駒札によると・・・
平野國臣殉難の地
幕末尊王攘夷派の指導者平野国臣が処刑されたところである。この地はもと「六角獄舎」があったところで、安政の大獄以後は多くの政治犯が収容されたので会所ともいった。 国臣は、生野の乱に挙兵して捕えられ、元治元年(1864)1月17日ここに収容された。同年7月19日禁門の変(蛤御門の変)の兵火の中で幕吏は獄中の尊王攘夷派の志士たちを斬った。この時斬られた一人が国臣である。この難にあったものは、国臣のほか37名にのぼった。なお、当地は、宝暦4年(1754)に医師山脇東洋がわが国で初めて死体解剖を行ったところと言われ、付近に記念碑がある。
京都市

六角獄舎(今の刑務所)があったようです。六角獄舎とは次のようなもので巣。
六角獄舎は平安時代に建設された左獄・右獄を前身とする京都の牢獄である。正式名は三条新地牢屋敷。移転を繰り返して宝永5年(1708年)の京都大火以降に中京区六角通りに移転されてからは六角獄舎または六角獄、六角牢などと呼ばれるようになった。
○歴史
宝暦4年(1754年)、医学者・山脇東洋が京都所司代の許可を得て日本で初めて人体解剖を行った場所が六角獄舎である。解剖には死刑囚が用いられた。幕末の混乱の中、井伊直弼の安政の大獄による政治犯や過激な尊皇攘夷派志士らが多く捕らえられて処刑されるようになる。しかし反面、尊皇攘夷思想の強い囚人が集まったため牢内で囚人達に尊皇論を説いたり同志と知り合ったりなどという事もあったらしい。元治元年7月19日(1864年8月20日)に始まった禁門の変に伴い生じた火災(どんどん焼け)は、京都市中に広がり六角獄舎にも及ぶ恐れが生じた。管理を任されていた京都町奉行の滝川具挙は過激な志士達の脱走を恐れて囚人解き放ちをせず、いまだ判決が定まっていなかった生野の変首謀者・平野国臣、天誅組の変の水郡善之祐(河内)乾十郎(大和)など囚人33人を斬罪に処してしまう。しかし六角獄舎に火は回って来なかった。これについて、安政の大獄で捕らえられていた村井正礼が記した手記『縲史』に当時の生々しい記録が残る。さらに、先月の池田屋事件の折に捕縛されていた古高俊太郎をはじめとする尊皇攘夷志士らも斬罪。この件は新選組の仕業と疑われるようになる。明治以後、監獄から保護施設として改築された。斬首に使われた刀を洗う「首洗井」が埋め立てられてはいるが跡地に現存しており、密かな心霊スポットになっている。

こういう経緯があって近所に近代医学発祥の地という石碑もある。

所在地:京都府京都市中京区六角通大宮西入ル因幡町

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2018-04-27(Fri)

武信稲荷神社

武信稲荷神社は、京都府京都市中京区にある神社。必勝、命名、名付けに利益がある。
○祭神
宇迦之御魂大神
佐田彦大神
大宮能売大神

○歴史
859年2月、藤原良相によって創祀された。藤原武信が当社を厚く信仰したため武信稲荷と呼ばれるようになった。2011年に境内の改修がおこなわれた。

○行事
1月1日-歳旦祭
1月15日-どんと焼き
2月3日-節分祭
2月最初の午の日-初午祭
5月第2日曜日-例祭(さつき祭り)
8月最終日曜日-子供みこし巡行
11月第2日曜日-御火焚祭

○逸話
境内に平重盛が植えた榎の大木があり、そこに坂本龍馬がおりょうにあてて伝言を書き残し、その伝言がもとで二人は再会できたという。2010年に、宮司である仲尾宗泰が書いた本(仲尾宗泰 2010)が徳間書店より出版された。

○交通
阪急京都本線 大宮駅より徒歩(約650m)。
京福電気鉄道嵐山本線 四条大宮駅より徒歩(約600m)。
山陰本線 二条駅より徒歩(約800m)。
京都市営地下鉄東西線 二条城前駅より徒歩(約900m)。

○所在地
京都府京都市中京区三条通大宮西入る

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2018-04-27(Fri)

天道神社

天道神社は京都市下京区にある神社です。祭神には天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)をお祀りします。創建は794年(延暦13年)、桓武天皇の遷都の時、長岡京に鎮座されていた天道神社を勧請され、以後、織田信長により現在地に遷座しました。四条大宮を南に入った住宅街にある小さな神社えす。

住所:京都府京都市下京区仏光寺通猪熊西北角615

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2018-04-27(Fri)

光縁寺

浄土宗の寺で、知恩院の末寺にあたる。創建は、慶長18年(1613)頃で、天明の大火により焼失した堂宇は再建されて現在に至っている。本堂には本尊として阿弥陀如来像をお祀りしている。当寺の門前近くには、新撰組の馬小屋があり、毎日、門前を隊士たちが往来していた。中には新撰組副隊長の山南敬介もいた。山門の瓦には、山南家と同じ家紋が目に入った。当時の住職は22世の良誉上人であったが、年齢も山南と同じであった。やがて2人の間には親交が生まれて、山南の紹介で屯所で切腹した隊士達や山南自身、またその後の多くの隊士が良誉上人に弔われ、埋葬されることになった。

住所:京都市下京区綾小路大宮西入四条大宮町37

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2018-04-17(Tue)

青刻昆布発祥の地

碑文にはこう書かれています。
昆布加工品の原点である青刻昆布の主産地大阪における創始は一七二一年(享保六年)頃と伝えられる。文化年間に清国(中国)に試売し,一八二〇年頃から販路を拡張,専ら大阪上町台地において製造していた。
一九〇〇年(明治三十三年)には,大阪の刻昆布が国の重要物産品に指定されている。
今日大阪の昆布加工品は,なにわ名物として広く認められ,大阪の食文化に大きく寄与しており,一九九八年(平成十年)には大阪特産物品として国により認証された。
大阪昆布商工同業会(起源は明治三十四年認可の大阪刻昆布製造同業組合)は,平成十三年に百周年を向かえたのを記念してこの碑を建之する
平成十三年三月建立
大阪昆布商工同業会
当地は,中嶋豊吉が青刻昆布製造業を営んでいたが,昭和二十三年事業告示の区画整理事業により現在の越中公園になっている
大阪市

所在地:大阪府大阪市中央区玉造2丁目

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2018-04-17(Tue)

白龍大明神

TWIN21の別称は大阪ツインタワーだそうですが、そのツインビルの敷地に鎮座する小社です。オープン型の企業内神社ですね。OBP(大阪ビジネスパーク)の土地は、元々、寝屋川や第二寝屋川に挟まれた中州のような地域で、弁天島なんて呼び名もあったそうです。なので元からあった白龍大明神をお祀りしているのかとも思いましたが、調べるとパナソニック(松下電器)が龍神さんを守護神としてお祀りしているそうなのでその関係で建てられたのかも。本社始め、各地の事業所や工場にお社があるようですね。

所在地:大阪府大阪市中央区城見2丁目1
アクセス
地下鉄長堀鶴見緑地線「大阪ビジネスパーク駅」から約300m。
京阪本線「京橋駅」から約400m。
JR片町線・大阪環状線「京橋駅」から約500m。
JR東西線「大阪城北詰駅」から約500m。
地下鉄長堀鶴見緑地線「京橋駅」から約600m。

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2018-04-17(Tue)

法円坂遺跡

法円坂遺跡(法円坂倉庫群)は、大阪府大阪市中央区大手前にある古墳時代の遺跡。国の史跡に指定されている(史跡「難波宮跡附法円坂遺跡」として附指定)。

○概要
大阪市中心部、上町台地北端の難波宮跡北西部に位置する古墳時代の大倉庫群跡である。上町台地北端では難波宮以前の建物遺構約200棟が検出されており、本遺跡もそうした難波宮下層遺跡の1つになる。1987年(昭和62年)からの旧大阪市中央体育館跡地での発掘調査で発見され、現在は大阪歴史博物館・NHK大阪放送局の敷地内に位置する。遺跡内では建物遺構として掘立柱の大型高床式倉庫が計16棟検出されている。この倉庫16棟は東西2群(東6棟・西10棟)に分かれるが、いずれも正方位の真東西に並ぶという古墳時代の建物としては例のない配置になる。倉庫各棟は画一的な東西約10メートル・南北約9メートルの規模で、現在はそのうち1棟が推定復元されている。この法円坂遺跡は、古墳時代中期の5世紀前半頃の営造と推定され、古墳時代としては最大規模の倉庫群になる。難波では古墳時代中期から難波宮まで絶え間なく建物が営造されるが、本遺跡はその起源的位置づけにある。法円坂遺跡の北方では王権の手による難波堀江(人工運河)開削と難波津(王権の港)設置が知られており、本遺跡もそれらと関連する王権直轄の倉庫群と推測され、文献上に見える「難波屯倉」に比定する説もある。ただし発掘調査によれば、倉庫群は継続することなく廃絶したとされ、その後の難波は一度小規模化したのち6世紀頃から再び規模を拡大することとなる。法円坂遺跡の範囲は2001年(平成13年)に国の史跡に指定されている。なお、同様の古墳時代の大倉庫群としては鳴滝遺跡(和歌山県和歌山市)なども知られる。

○文化財
・国の史跡
難波宮跡 附 法円坂遺跡 2001年(平成13年)1月29日、既指定の史跡「難波宮跡」に法円坂遺跡の範囲を追加して指定名称を「難波宮跡附法円坂遺跡」に変更。

所在地:大阪市中央区大手前4-1(大阪歴史博物館前)

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2018-04-17(Tue)

難波宮内裏東方遺跡

大阪市中央区にある遺跡。日本初の本格的な首都として栄えた難波宮があった場所である。645年、難波長柄豊崎宮は、大化の改新の難波遷都に伴って造営された。昭和43年 (1968)に、大阪市立大阪青少年センターの建設に先立つ発掘調査で、この地域で、地下約1.5mのところから後期難波宮の建物や回廊などが発見されたと言う。また、難波遷都以前である飛鳥時代の建物や倉庫が発見された。ここでは、遺構面を砂で保護した上に広場を設ける特殊工法を用いて、遺構を保存している。発見された建物は、すべてが「掘立柱式」の遺構だが、 復元に際して柱位置に自然石を置いている。また、昭和56~57年の調査では、これにつながる回廊のほか、 それよりも古い前期難波宮のものと考えられる建物群も発見された。2棟の高床式倉庫を中心に整然と配置されており、 前期難波宮の東方官衙跡と推定される。

所在地:大阪府大阪市中央区法円坂1-1-35

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2018-04-17(Tue)

京橋川魚市場跡

京橋川魚市場跡
『大阪の魚市場といえば雑魚場市場が著名である。しかし近世の魚市場は雑魚場ひとつでなく、木津や天満にも海魚を扱う市場が営まれていた。また海魚とは別に川魚を扱う市場が京橋にあった。京橋川魚市場の起源は、石山本願寺の時期に設けられた鮒市場とされる。もともとは漁民が、京橋の北詰に川魚を持ち寄って販売する市のようなものだったと考えられる。 寛保元年(1741年)の「京橋川魚独占販売由来記」によれば、慶長年間(1596~1615年)のはじめごろに、小出播磨守秀政の指示を受けて構成員五十五人、うち五人を幹事である年寄とする市場機構のシステムが整えられた。 以降近世を通じて、幕府に大坂で川魚を独占的に扱うことを公認された市場となった。近代に入り、市場機構の変革がすすむ中、京橋川魚市場は明治末期には中之島六丁目付近へ移転し、大正四年(1915年)に大阪川魚株式会社が設立された。』

所在地:大阪府大阪市都島区片町1-5


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2018-04-17(Tue)

浪速鉄道片町駅跡

かつてこの場所を走っていた浪速鉄道の「片町駅」の跡。浪速鉄道は明治26年(1893)に設立された私設鉄道。片町-四条畷間を運行していました。その後関西鉄道に買収され、平成9年(1997)JR東西線、大阪城北詰駅の開業と同時に片町駅は廃止されました。

所在地:大阪府大阪市都島区片町1丁目

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2018-04-10(Tue)

本傳寺

本傳寺は、大阪府大阪市北区兎我野町にある日蓮宗の寺院。山号は高照山。旧本山は大本山本圀寺(六条門流)、親師法縁。 新撰組有縁の谷三兄弟(新撰組槍術指南役や第7番隊隊長を務めた谷萬太郎、新撰組局長近藤勇の養子となった近藤周平こと谷昌武、二人の兄である谷三十郎)の墓や華道の未生流の流祖大空院殿法眼未生翁大居士の墓がある。区内には成正寺、法清寺など日蓮宗寺院が多い。

○歴史
豊臣政権時代の文禄年間(1592年‐1596年) 究境院日禛(大本山京都本圀寺16世)の弟子の佛乘院日政が現在地に創建した。江戸時代には日威(3世)の代の元禄年間(1688年‐1704年)と日専(13世)の代の文化年間(1804年‐1818年)と日道(16世)の代の天保年間(1830年‐1844年)にそれぞれ本堂が再建された。いずれも火災による焼失とみられる。太平洋戦争中の昭和20年(1945年)に大阪大空襲による無差別爆撃で経蔵を残し全焼した。平成7年(1995年)の阪神淡路大震災でも大きな被害を受けた。

○境内
本堂

○歴代
究境院日禛(開山)
行妙院日学(21世)
瑞妙院日顯(22世)
順延院日豪(23世)

○所在地
大阪府大阪市北区兎我野町14-3




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