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2020-02-14(Fri)

中筋八幡神社

八幡神社は、兵庫県宝塚市にある神社である。地名から、中筋八幡神社とも称される。旧川辺郡中筋村の産土神で、町村制施行により成立した長尾村の村社となった。本殿は国の重要文化財、例祭はだんじり祭りが行われる。

○祭神
社伝に宇佐神宮の御分霊を祀って建立されたとあり、祭神は誉田別尊(ほむたわけのみこと、応神天皇)。

○歴史
創建年月は不詳。『摂津史』及び棟札から、1345年に修理が行われており、それ以前の創建と考えられる。明治に入り、村社に加列された。
阪神淡路大震災で殆どの建造物が倒壊する被害にあうが、本殿等は修理復元、拝殿・鳥居等は新たに建立された。

○社殿・境内
・本殿:一軒社隅木入春日造、正面軒唐破風付、檜皮葺。室町時代後期の建立と伝えられる。 棟札は2枚で、修理の貴重な記録である。
1.康永4年(1345年)平義重重補
2.寛文5年(1665年)再興
・境内摂社
厄神社-祭神:?坂皇子、忍熊皇子(両皇子とも誉田別尊の異母兄で、神功皇后・誉田別尊母子に対し反乱を起こす)
九頭龍神社-祭神:木花咲屋比売神

○祭事・年中行事
10月第3週の金土曜日に、だんじり祭が開催される。

○文化財
昭和55年(1980年)12月18日、本殿及び棟札2枚が、国の重要文化財(建造物)に指定された。

○例祭
10月25日

所在地:兵庫県宝塚市中筋二丁目6番3号

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2020-02-14(Fri)

天日神社

○由緒
創立年不詳。明治6年(1873)、村社に列せられる。

○主祭神:天忍穂耳命
○配祀神:火魄命   

○例祭日
10月30日

所在地:兵庫県伊丹市荒牧3-16-54

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2020-02-14(Fri)

八王子神社

創建不詳。境内の板碑は正応3(1290)年造立で、年号の入った石造物としては宝塚市内としては最古。


所在地:兵庫県宝塚市中筋6-8-2

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2020-02-14(Fri)

容住寺

聖徳太子が中山寺へ向かう途中にこの地で休憩した際、霊感を受け創建を命じたと伝わる。伊丹市では最古の仏像である本尊の十一面観音坐像ほか、太子16歳の童子像を安置。


住所:兵庫県伊丹市荒牧1丁目17-30

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2019-11-04(Mon)

出世地蔵尊

戦災による焦土の中から発見され、「地中から世に出た」事から「出世地蔵尊」と名付けられた。繁華街の中にあり、地元の商売人や出世を願う人たちが参拝している。

所在地:大阪府大阪市中央区道頓堀2丁目(神戎橋南詰)

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2019-11-04(Mon)

道引地蔵尊

明治24年(1891年)に建立。4畳半ほどのお堂に、お地蔵さんが佇んでおり、地域の人々の信仰を集めている。ビルに挟まれた地蔵堂で、その界隈の地域性がかいま見られる地域資源である。堂自体は老朽化しているが、地域の人々の信仰と親しみのある場所であり、地域の力で維持管理している点が評価できる。古い小さな粗末な外観の建物ではあるが、今後も永く守るべき地域の心の資源である。

所在地:大阪府大阪市北区豊崎1丁目2番7号

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2019-11-02(Sat)

薩摩堀川跡碑

阿波堀川と百間堀川を結ぶために寛永5年(1628年)薩摩屋仁兵衛が開削を始め、2年後の寛永7年に完成させた。この堀川は当初「阿波座新堀」と呼ばれていたが、開削者の名からと、薩摩藩下屋敷に物資の運搬がされていたので、「薩摩堀川」となった。

所在地:大阪府大阪市立売堀4-2(薩摩堀公園)

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2019-10-28(Mon)

本寿寺

戦後に復興した日蓮宗の寺。ひときわ目を引く日蓮上人の像は、戦火で焼け野原と化したこの地に「人々の心のよりどころになるものを」と建立。像もその下にある納骨堂も庭も壁も、起訴は全て住職らの手作りで、阪神淡路大震災にも耐えたというから驚きだ。

電話番号:078-341-0982
住所:兵庫県神戸市中央区下山手通7-1-35

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2019-10-28(Mon)

福徳寺

花隈公園の碑文に「本丸の北西隅に天守」とあり、それを示す「花隈城天守閣の跡」碑がこの寺の前に。寺を囲む城壁の様な堀が印象的だ。

電話番号:078-341-4980
住所:兵庫県神戸市中央区花隈町15-3

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2019-10-28(Mon)

ハンター坂

電柱のような鋳物の柱に「ハンター坂」と書かれた金属板の しゃれた標識が建っている。また 歩道上には「ハンター坂」と書かれた石の標識もある。

ハンター坂
神戸市は,昭和48年(1974年)に集中豪雨等の際に発生する土砂流出や流木をくい止め,市街地を災害からまもるために,ここに土砂貯留容量,3000立方メートルの堰堤を築いた。かつて,この地には,1843年にイギリスで生れ,1867年に神戸に来て,貿易業のかたわら造船業をおこした E.H.ハンター氏の邸宅があった。この異人館は,昭和36年(1961年)に解体され,王子公園に移築されて重要文化財として保存されている。E.H.ハンター氏は,この屋敷の横から再度山への登山道を開いたといわれ,これが毎日登山の発祥ルートであるといわれている。「ハンター坂」と呼ばれたこの登山道も,昭和20年代にはじまった砂防工事等で通れなくなり,今は緑の自然林がよみがえりつつある。
昭和59年3月神戸市

○由来
かつて坂上にハンター邸があったことに由来する

○所在地
兵庫県神戸市中央区山手通1丁目と2丁目の間から 北野町3丁目と4丁目の間まで。(更に北野3丁目まで)

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2019-10-07(Mon)

堀江川跡碑

元禄11年(1698年)西横堀川と木津川をつなぐ掘江川が河村瑞賢によって開削され、堀江新地ができた。新地での幕府の優遇策により、色々な文化などが起こり、学者や文化人を生み出した。昭和35年(1960年)に市街地開発のため埋め立てられた。

所在地:大阪府大阪市西区南堀江1-13-23(堀江公園)

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2019-10-07(Mon)

奈良春日神社

由緒;創建年代不詳なるも、往昔当村住人三宅石雄の妻は藤原氏の出身にて子無きを憂え大和の国春日大明神に祈りて男子を出産。故に御神威を崇め大神(天児屋根命)を勧請し地名を奈良と呼び、安産の神として崇敬される。春日神社と称し全村崇敬の誠を捧げ奉れり。当時の神事祭等は大和の国春日大社の神職三人来たりて行うと伝えられる。明治5年村社に列せられる。
○御祭神   
天児屋根命(あめのこやねのみこと)
天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、天照皇大神(あまてらすすめのおほかみ)
天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)、産火火瓊々杵命(ひこほほににぎのみこと)
○配祀
天下魂命(あまくだりたまのみこと)、天八下魂命(あまのやくだりたまのみこと)天合魂命あまのあいむすびのみこと)、太玉命(ふとたまのみこと)武甕槌命(たけみかづちのみこと)、大山積命(おおやまつみのみこと)     

○社殿移設
昭和38年大阪府道中央環状線建設に当り、境内及び林地の一部、末廣池の半分を道路敷地として提供したので、社殿の位置を南方に20メートル勇姿まま移築された。昭和39年2月完了。
境内案内板より

所在地:大阪府茨木市天王1-1-22

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2019-10-07(Mon)

藤井藍田の玉生堂跡

西区南堀江の高台橋公園の一角に 「玉生堂跡」の碑が建っている。藤井藍田は1816年(文化13年)大坂に生まれる。幼名平三郎、名は尚徳。 家業の呉服と藍を営む「綿屋」を息子の卯右衛門に譲り、1857年(安政4年)に南堀江高台橋南詰東入北側に「玉生堂」を開き、漢・儒学の教授を始めた。この塾に、勤王の志士達が出入りし、彼らのアジトとなり、幕府からは危険分子として睨まれていた。

所在地:大阪市西区南堀江3-1(高台橋公園)

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2019-10-07(Mon)

長州萩藩蔵屋敷跡

この辺りはかつての江戸堀の一角で、江戸時代には中之島とともに諸藩の蔵屋敷が立ち並んでいたところです。蔵には米をはじめ諸国の物産が集められ、大坂はこのため天下の台所として賑わいました。ここにあった広大な長州萩藩の蔵屋敷には、幕末動乱に際して、長州に落ちのびる途中の三条実美ら尊王攘夷派の公卿七人も立ち寄ったことがあります。

所在地:大阪府大阪市中央区土佐堀1

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2019-10-07(Mon)

大阪商業講習所

大阪商業講習所は、1880年(明治13年)11月、五代友厚らによって大阪府に開設された商業教育機関である。1885年(明治18年)3月、府立大阪商業学校に改組されるまで存続し、現在の大阪市立大学などの源流とされている。

○沿革
・開設の背景
商業講習所開設のきっかけとなったのは福沢諭吉門下で慶應義塾に学んだ加藤政之助による新聞論説である。彼は1879年(明治12年)8月、編集主幹を務める『大坂新報』紙上に社説「商法学校ヲ設ケサル可ラス」を掲載し、全国の商業の中心として栄える大阪になぜ商法学校がないのか、という問題提起を行った。同紙の経営者であり大阪商法会議所(現・大阪商工会議所)の初代会頭でもあった五代友厚は加藤の提起に応え、加藤および門田三郎兵衛(豪商)・桐原捨三(福沢門下のジャーナリスト)の3名を仮創立事務委員とし、自らは創立員代表として商業講習所の開設準備を進めた。

・「私立大阪商業講習所」時代
1880年(明治13年)10月、大阪講習所の生徒募集広告が新聞に掲載され、入学試験を経て60名余りの生徒が11月の開所とともに入学した。私立学校として発足した講習所の初代所長(校長)に就任したのは創立事務委員の桐原で、5名の教師はいずれも日本人であった(先行の東京商法講習所が外国人教師を招いていたのとは対照的である)。講習所の課程は昼間の「正則科」と夜間の「速成科」に分かれており、「簿記・経済・算術」の3科目に加え「習字作文」・「実地演習」が講じられた。特に実地演習では、講習所のなかで模擬の会社・官庁・取引所などを置き生徒が模擬取引を行う実践的教育が行われた。さらに上述の創立メンバー4名がいずれも日中間の経済的提携を標榜する興亜会会員であったことから、課程外科目として「支那語学」が教授されていた。この時期、卒業年限は1年未満から3年まで、生徒個人の能力により一定してはいなかったが、平均すると1年半を要している。講習所の経営は五代を筆頭とする創立員の個人的寄付に大きく依存しており、特に創立事務委員を兼ねていた門田の寄付が多く、これに住友吉左衛門・鴻池善右衛門・藤田伝三郎ら地元大阪の豪商・実業家が続いていた。しかし開設後ほどなくして個人の寄付に依存する形態では財政が苦しくなり、1881年(明治14年)3月には15名2企業よりなる創立員が連名で大阪府知事に「公立大阪商業講習所設立建言」を提出、講習所の大阪府移管を求めた。

・「府立大阪商業講習所」時代
前記の建言を受理した建野郷三府知事は、1881年(明治14年)8月、有志者による資金援助を前提に講習所を府に移管し「府立大阪商業講習所」と改称した(当初管轄は府の学務課だったが1882年(明治15年)1月以降は勧業課に移管された)。府への移管にともない制定された「大阪商業講習所正速改正規定」では、正科の入学資格を満13歳以上の小学中等科卒業者(及びそれと同等の者)とし、修業年限を3年、大阪に在籍の者は入学金・月謝を無料とし、夜間速成科では入学資格を「商家もしくはその雇にして昼間に暇なき者」(すなわち勤労青少年)とし、修業年限を1年半、全ての生徒の入学金・月謝免除とするなど、制度上の整備が進められた。また、山本達雄教頭の下で生徒の「前垂れ掛け」が奨励され、「卒業後は株主総会やその他の場所で自己の所信を表明できるように」正科生を集めて演説の練習会が行われた(しかしこの演説練習会は当時盛んであった自由民権運動との関係を疑われ、また府知事の見学よりも先に立憲改進党幹部の前島密による学校視察を許したことから府に非難され、山本教頭は1882年(明治15年)9月辞職を余儀なくされた)。この頃になると講習所の生徒は大阪のみならず、近隣の関西地方や中国・四国・九州など遠隔地からも集まるようになっていた。 その後、創立員の中心であった五代が死去し、また前記の事情により低廉に抑えられていた月謝収入が見込めず、府議会も予算拠出に消極的であったことから講習所は再び財政難に陥り、講習所は農商務省に補助金支給を求めたが却下された。このため中等学校たる第1種商業学校への転換をはかる方針に転じ、1885年(明治18年)3月に講習所の設備・教員をそのまま継承して「府立大阪商業学校」が開設された。

○後身の諸機関
府立大阪商業学校は1889年(明治22年)、市制特例による大阪市制の発足にともない「市立大阪商業学校」へと改編され、その後さらに高等教育機関たる市立大阪高等商業学校-(旧制)大阪商科大学へと発展を遂げた。このため大阪商業講習所は市立大阪商業学校の後身である大阪市立天王寺商業高等学校、および大阪商大の後身たる新制の大阪市立大学の起源とみなされている。

○校地の変遷
開設時の講習所は現在の大阪市西区立売堀3丁目17番地にあった旧町会所の建物を校舎とし、大阪府移管(1881年8月)にともない同じく西区江戸堀南通3丁目18番地の旧府会議事堂2Fに移転された。江戸堀の校舎は府立大阪商業学校に継承され、同校の後身である市立大阪商業学校が1892年(明治25年)10月、現在の北区堂島浜通2丁目12番地の新校舎に移転するまで使用された。 立売堀の旧校舎は移転後も使用・保存されていたが第二次世界大戦中の戦災で焼失し、現在は「阿波座南公園」の一部となっている。なお同地には市制施行70周年を記念し1961年(昭和36年)3月に「大阪商業講習所跡」の記念碑(石碑)が建立されている。

○所在地
大阪府大阪市西区立売堀二丁目2(阿波座南公園内)

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2019-10-07(Mon)

新町九軒桜堤の跡

京都の島原・江戸の吉原とともに、近世三大遊里の一つと称される大坂の新町は、明暦のころ(1655頃)一応成立したと考えられている。当時としては、大坂唯一の公認の遊所であった。九軒町の名は、玉造の九軒茶屋を移したからといわれている。西鶴や近松の作品に登場する吉田屋は、戦災前まであった。また九軒町の夜桜としても有名であった。

所在地:大阪府大阪市西区新町一丁目15(新町北公園)

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2019-10-07(Mon)

勧進相撲興行の地

元禄5年(1692)に南堀江高台橋橘通で勧進相撲が興行されたのが大坂相撲のはじまりです。18世紀後半までは大坂商人の豊かな経済力を背景に江戸相撲以上に隆盛を誇りましたが、地方の諸大名が力士を抱えるようになると、諸大名は参勤交代で江戸にいるので江戸相撲にお抱え力士を出場させ、やがて大坂相撲は流行らなくなっていきました。宮廷行事であった相撲節会(せちえ)は承安4年(1174)に廃止され、中世には武士社会に根付き、その屋敷内で行われていた。その反面民衆による勧進相撲は、江戸時代には風紀を乱すということで厳しく禁止されていた。しかし元禄ころからは勧進相撲の興行は緩和され、大坂の最初の興行はここで、元禄ころ行われたという。その後、四季8日の相撲が定例化し、大正14年には東京の相撲集団と合併し、大日本相撲協会へと発展した。

所在地:大阪府大阪市西区南堀江二丁目(南堀江公園内)

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2019-09-27(Fri)

有高稲荷大明神

石段に赤い鳥井がずらり。本殿・拝殿共に消失し、平成21(2009)年に再興。

所在地:兵庫県宝塚市中筋山手3-7-1

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2019-09-27(Fri)

藤の森稲荷大明神

武士藤木右衛門の遺言で家名を残すために建てられた祠。5月には春の大祭が行われる。

所在地:兵庫県川西市小花1丁目
電話:072-759-6863(四谷)

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2019-09-16(Mon)

加島屋本家跡

江戸時代に活躍した大坂の豪商・加島屋。 広岡姓の久右衛門家と長田姓の作兵衛家の2系統があった。 久右衛門家は、大坂御堂前で米問屋・両替商をはじめ、後に十人両替に任命された。明治時代、政府に対して援助を行い、加島銀行を設立したが世界恐慌により廃業。作兵衛家は、大坂で米仲買として玉水町に店を構え、肥後藩蔵元掛屋、宇和島藩紙方蔵元掛屋を勤めた。大川町に移転後、諸藩に貸付を行い、万延御用銀は鴻池、玉水町加島屋とともに最高額3000貫目を引き受けた。明治時代、政府に対して財政的な援助を行ったが、陸軍省預り金の即時上納を命ぜられ、果たすことができず、倒産・閉店。

所在地:大阪府大阪市西区江戸堀1-2-1大同生命大阪本社ビル

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2019-09-16(Mon)

接木太夫彰徳碑

安土桃山時代に接木法を発明し、豊臣秀吉から「接木太夫」の称号を与えられた坂上善太夫を称えたもの。大正元(1912)年に建立され、植木の名産地・山本のシンボルとなっている。

所在地:兵庫県宝塚市山本東1-3-2

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2019-08-28(Wed)

松島遊廓

松島遊廓は、かつて大阪府大阪市西区にあった遊廓、赤線。松島新地とも呼ばれる。現在もちょんの間が存在する。

○概要
戦前と戦後で場所が異なる。戦前は現在の千代崎1・2丁目にあったが大阪大空襲で焼失。戦後は現在の本田2丁目・九条1丁目に場所を移して赤線として復活。1958年(昭和33年)の売春防止法施行以降、届出上は「料理店」となっているが、「仲居と客との自由恋愛」と称する行為が行なわれている。2018年時点で料金は30分16000円から、1日平均7人の客で、10万円ほどの売り上げが平均的であり、約8万平方メートルの敷地内に104店舗の「料理店」が存在する。

○歴史
旧広島藩士の有田徳一、新町遊廓の大垣屋、船場淀屋小路の侠客堤仁三郎が、木津川と尻無川 に挟まれた寺島の北部(現在の千代崎1・2丁目)への遊廓の開設を願い出て、大阪府知事渡辺昇より1868年(明治元年)2月に振興策として設置が許可された。 寺島の北端(現在の松島公園の北端あたり)に樹齢300年とも言われる松の大木があったことから、寺島の北端は「松が鼻」と呼ばれていた。「松島」の地名は、松が鼻と寺島の一字を取ったと言われている(『松島新地誌』松島新地組合・1958年)。寺島の木津川沿いは江戸時代から市街化され、木津川町、九条村町、寺島町が成立し、船大工の多い地域だった。その他は西成郡九条村字寺島の田地が広がっていた。翌1869年(明治2年)には上記の場所を統合して松島町が成立し、南隣の西成郡岩崎新田との境には堀川が開削され、松島遊廓が誕生した。遊廓の中心となる仲之町の目抜き通りには桜が植えられ、桜筋とも通称された。また、南端の花園町に遷座された大阪天満宮行宮の境内にも桜が植えられ、松島遊廓は桜の名所としても知られていた。このころの料金は、美醜に応じて、上等8銭、中等6銭、下等4銭に分けられていた。松島遊廓の誕生により、江戸時代から続いた新町遊廓は衰退の一途を辿ることとなり、1890年(明治23年)9月5日の大火(新町焼)で大半を焼失。一方、大阪市電第1期線の築港線(1903年開通)と第2期線の東西線(1908年開通)が松島経由で結ばれるなど、交通の便にも恵まれた松島遊廓は活況を呈した。花園橋西詰から西へ伸びる九条通(いわゆる九条新道)には商店街が発達し、昭和初期には心斎橋筋商店街に比肩するほどの賑わいを見せていた。
1869年(明治2年) 松島遊廓開設。『御免遊女街松島廓の園』によると、明治初期には遊女屋や茶屋など計270軒があり、松島橋と梅本橋に大門が設置され、東京の吉原に倣って奇麗壮観な目を驚かすような景観だった。
1871年(明治4年) 市内20ヶ所の遊所に対し茶屋渡世を禁じ、松島へ移住希望者のみ継続営業を許可する通達出される。
1872年(明治5年) 娼妓の性病検査治療のため松ガ鼻に駆黴院開設。町名を松島町・松島上之町・仲之町・高砂町・緑町・十返町(とがえりちょう)・花園町・月見町・雪見町の9町に改編。
1875年(明治8年) 大阪天満宮行宮が本田二番町より花園町へ遷座。
1876年(明治9年) 廃業者続出し一時廃れた。
1878年(明治11年) 西南戦争後の好景気により娼妓約1000人となる。
1879年(明治12年) 松島上之町を松島町に編入、緑町を高砂町に編入、月見町・雪見町を花園町に編入し、松島町・仲之町・高砂町・十返町・花園町の5町に改編。
1881年(明治14年) 清国女性を3名雇い入れる。
1883年(明治16年) 駆黴院が性病専門病院「府立難波病院」に刷新
1884年(明治17年) 松島事件(陸軍兵士と警察官の乱闘事件)が発生。
1894年(明治27年) 娼妓約3200人。
1900年(明治33年) 娼妓の自由廃業が認められた娼妓取締規則成立により約1000人が廃業
1916年(大正5年) 娼家計267軒、娼妓4103人を数え関西第一の遊廓となる
1926年(大正15年) 松島遊郭疑獄
1938年(昭和13年) 登楼時間が制限され、午前1時までとなる
1939年(昭和14年) 午後11時以降の歌舞音楽禁止
1940年(昭和15年) 貸座敷取締規制改正により昼間の登楼禁止となる
1945年(昭和20年) 大阪大空襲により全焼
1947年(昭和22年) 九条へ場所を移し、松島新地として営業再開
1948年(昭和23年) 三業(置屋・待合・料亭)分立の制度成る
1952年(昭和27年) 尻無川の上流区間(境川運河以北)埋立。
1958年(昭和33年) 売春防止法施行により廃止 - 以後、料亭街「松島料理組合」ということになっているが、料亭の仲居との自由恋愛との名目により営業形態はそれほど変わっていない。なお、大阪府は条例でソープランドを許可していない。
2012年(平成24年)3月 女性の訴えにより悪質なスカウトと売春強制を繰り返していた経営者らが逮捕された。

○交通
Osaka Metro中央線 九条駅下車
Osaka Metro長堀鶴見緑地線 ドーム前千代崎駅下車
阪神なんば線 九条駅、ドーム前駅下車
阪神高速道路16号大阪港線 九条出口、本田入口







2019-08-08(Thu)

市杵島姫神社

〇御鎮座地
当神社は、宝塚市の中心部に近い、中山寺(地名)の住宅地の中に鎮座されております。大本山・中山寺のすぐ近くで、山門の前の道を西に200mのヤマモモなどの鎮守の森の囲まれています。

〇御由緒
当社の創建は、慶長八年(1603)三月と伝えられているそうです。御祭神の市杵島姫命(いちきんえしまひめのみこと)は、安芸の宮島・厳島神社や京都の松尾大社の御祭神でもありますが、どこから勧請されたかは不詳のようです。

住所:兵庫県宝塚市中山寺2-11-21
最寄り駅:中山観音駅[北出口]から徒歩約4分



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2019-08-08(Thu)

大阪市立愛日小学校

大阪市立愛日小学校は、かつて大阪府大阪市中央区(旧東区)北浜四丁目にあった公立小学校。

○概要
御堂筋に面しビジネス街の真ん中にあった。しかし都心部の夜間人口減少により1990年4月に大阪市立集英小学校と統合され大阪市立開平小学校となった。1990年3月をもって閉校となった。 1929年に竣工した校舎は、建築家・横浜勉が設計を担当した。閉校後しばらくは旧校舎に大阪市の関連施設が、校庭は市営今橋駐車場が入居していたが、旧校舎は2005年に解体された。跡地には、「淀屋橋地区第一種市街地再開発事業」として2008年3月に事務所及び商業施設(淀屋橋odona)の多目的高層ビル(三井住友海上大阪淀屋橋ビル、淀屋橋三井ビルディング)が建設された。 校名は古典文献の一節に由来しているといわれるが、どの文献から採用したのかという正確な出典については複数説が提示されているためはっきりしていない。校名を決定する際、当時の東区は地名から校名を付けるのが望ましいと指導したが、学校関係者は地域に愛珠幼稚園があることなどを理由として、「愛」の字をとった「愛日」の校名を強く主張して認められたという話が伝えられている。また学校の閉校記念誌によると、明治時代初期に社会教育や社会見学を初めておこなった学校と記されている。

○沿革
山片蟠桃の屋敷跡が学校敷地である。1872年8月、「升屋」八代当主山片重明は小学校設立のため、大阪北浜にある自らの邸宅を、土地、家屋、建具ごと学校に寄贈した。この中に、山片家旧蔵の書籍類があり、山片重賢・重芳らの収集した書籍、山片蟠桃の学問上の研究書、山片重賢・重芳らの収集した書籍、山片蟠桃の学問上の研究書、蟠桃が仙台藩主や白川藩主松平定信から拝領した貴重書の数々も小学校に寄贈された。昭和時代に入り、1940年代前半の大阪市は中等学校の入試難を緩和するための方策として中等学校の増設を図った。この際、既存の小学校(国民学校)を近隣校へ統廃合して、空いた校舎を転用することで中等学校を新設する方法をとった。その一環として、1942年に船場国民学校校舎を転用して大阪市立船場高等女学校(戦後大阪市立東高等学校に統合されて廃校)を設置した。これにより、船場国民学校は愛日国民学校に統合された。また太平洋戦争終戦直後には、戦災被災により久宝小学校を統合している。1970年代頃から児童数の減少傾向が目立つようになり、同様に児童数減少が目立っていた大阪市立集英小学校との統合の話が持ち上がった。大阪市教育委員会や両校の学校・地域関係者らが折衝を進め、1989年9月に大阪市教育委員会から2校の統合が正式発表された。統合で開平小学校が設置されたことに伴い、愛日小学校は1990年3月に閉校となった。

○年表
1872年8月1日-東大組第十三区小学校として創立。
1872年9月12日-大阪府の巡講師が学校を訪問し、地域住民向けの講話をおこなう(学校記念誌では社会教育の始まりとされている)。
1872年10月17日-ロシア皇子来阪。宿舎の北御堂が西洋人宿舎として一般公開されたことに伴い、学校として見学をおこなう(学校記念誌では社会見学の始まりとされている)。
1879年2月-東区公立北浜小学校と改称。
1886年7月-東区道修小学校と合併。東区愛日小学校と改称。
1889年10月-大阪市の市制施行により、大阪市愛日尋常小学校と改称。
1923年4月-高等科を併設。大阪市愛日尋常高等小学校と改称。
1928年4月-高等科を廃止。大阪市愛日尋常小学校と改称。
1928年5月24日-木造校舎を取り壊す。解体された校舎は黒山高等実践女学校(のちの大阪府立登美丘高等学校)へ移築。
1941年4月1日-国民学校令により、大阪市愛日国民学校と改称。
1942年4月1日-大阪市船場国民学校を合併。
1944年8月31日-滋賀県蒲生郡朝日野村・桜川村(いずれも現在の東近江市)へ集団疎開。
1945年3月14日-大阪大空襲により、この日に予定されていた卒業式は中止。
1945年4月1日-学校での授業を停止。
1945年9月1日-学校での授業を再開。
1946年4月1日-戦災に伴い、大阪市久宝国民学校を合併。
1947年4月1日-学制改革により、大阪市立愛日小学校と改称。
1958年2月5日-インドネシア大統領スカルノが当校を視察。
1959年-講堂の建て替え。解体された旧講堂は大阪市立茨田中学校へ移築。
1976年12月-「当校敷地が大阪市役所第二庁舎の候補地となった」と一部新聞が報道(数日後誤報と判明)。
1980年4月15日-大阪市教育委員会から算数科の研究校に指定される(1981年度までの2年間)。
1989年9月28日-大阪市教育委員会、愛日・集英2小学校の統合を正式発表。
1990年3月24日-閉校式を実施。
1990年3月31日-閉校。
2005年-校舎解体
2008年3月-跡地に建設された再開発ビルが竣工(淀屋橋odona, 三井住友海上大阪淀屋橋ビル, 淀屋橋三井ビルディング)

○所在地
大阪府大阪市中央区北浜四丁目3番8号

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2019-08-08(Thu)

葱生城

葱生城は大阪府大阪市旭区生江にあった城である。荒生城とも書く。

【遺構】
淀川南岸、城北公園の東側にあったとされるが、淀川の氾濫による度重なる洪水や宅地化により現在はその遺構を確認することはできない。かつて大字「荒生(なぎ)」の東方に古城があったと伝承され(『顕パ』)、同地に建つ常宣寺(大阪市旭区生江3-27-18)には大阪市顕彰史跡第209号として、門前に史跡パネルが設置されている。

【歴史】
『信長公記』によると、元亀元年(1570)から天正8年(1580)までおよそ10年間をかけて行われた石山本願寺と織田信長との「石山合戦」で、本願寺方が石山本願寺を中心に51に及ぶ出城を構築したとされ、葱生城もその中の1つであるという。推定地とされる常宣寺の創建は応永4年(1397)に遡り、室町時代中期には蓮如(本願寺第8世)が立ち寄り近郷に教化伝道したと伝えられることから、同地が石山合戦以前から本願寺と強い結びつきを持っていたことが窺われる。

所在地:大阪市旭区生江3-27-18



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2019-08-08(Thu)

西船場小学校創設之地

明治5年(1972)大阪市立西船場小学校の前身である玉水小学校・西大組一番小学校が創設され、統合変遷を繰り返し昭和22年(1947)大阪市立西船場小学校と改称。現在は西区江戸堀1丁目21-28に所在。

所在地:大阪府大阪市西区江戸堀1丁目21-28




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2019-04-26(Fri)

芭蕉終焉の地

元禄7年(1694)9月、芭蕉は故郷伊賀上野から奈良をすぎ暗峠を越えて来坂した。当時大坂には2人の門人が俳壇をにぎわしていたが、相互に円満を欠くところがあり、それを取り持つための来坂であった。出発時から体の不調を訴えていたが、住吉神社に詣で升の市神事に出掛けるなどしたが、その後、発熱下痢を伴い花屋仁右衛門方離れ座敷に病臥、10月12日夕方没した。51歳。

所在地:大阪市中央区本町南御堂前御堂筋東側緑地内
地下鉄御堂筋線・地下鉄中央線「本町」下車 南約50m



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2019-03-09(Sat)

東奈良遺跡

東奈良遺跡は、大阪府茨木市の南部、阪急南茨木駅から東側一帯にある、弥生時代の大規模環濠集落の遺跡。1973年、大阪万博とともに新設された南茨木駅周囲一帯の大規模団地建設の際に発見された。南茨木駅の東300mに、出土品を所蔵・展示した市立文化財資料館がある。

○概要
東奈良遺跡には、二重の環濠の内部に高床式倉庫など大型建物や多数の住居があり、外部には広大な墓域もあった。 発見された工房跡から、銅鐸の鋳型が35点も出土しており、ほかにも銅戈・勾玉などの鋳型が発掘されている。ここの鋳型で生産された銅鐸が、近畿一円から四国でも発見されている。この集落が、奈良県の唐古・鍵遺跡と並ぶ日本最大級の銅鐸工場、銅製品工場であり、弥生時代の日本の数多くの「クニ」の中でも、各地に銅鐸を配布することができるほど政治的に重要な位置を占めていたことがうかがえる。また、高さが14.2センチの小さな銅鐸が見つかっている。銅鐸の起源は解明されていないが、この銅鐸がその謎を解く鍵となる可能性もあるという。この付近は「沢良宜」と呼ばれ、主な神社に「佐和良義神社」があり、迦具土神がまつられている。 カグは銅の古語であり、サワラギもサワラ(銅器)ギ(邑)となることから、この一帯が銅製品の加工と関係が深かったことがうかがい知れる。

○所在地
茨木市若草町・東奈良三丁目

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2018-12-13(Thu)

旧竹中家「馬上門」

石組みの水路と松並木を前面に配し、石橋を渡って入るように扉を開くこの門は、江戸時代に山田中村の庄屋をつとめた竹中家の表門です。かつて、ここで時代劇のロケが行われたというほど、近世の庄屋屋敷の整った景観が見られました。また、この門は、騎馬のまま出入りしたという謂れや、それほど丈が高く大きな門であるということから、親しみを込めて「ばじょうもん(馬上門)」と呼ばれてきました。門の形式としては、吹田市域の庄屋層の屋敷に設けられた長屋門の一種で、19世紀後半(幕末期)の建築と考えられます。切妻造・本瓦葺とする門の脇には、桟瓦葺で別屋根にした長大な長屋が溝側へ約2m張り出して建て継がれ、その反対側には瀟洒な二階建ての離れ(大正時代に他所より移築)が接続されていました。当初の構成は不明ですが、門に長屋を附属させて屋根を架ける長屋門が一般的である吹田市域で、別屋根とし、しかも長屋部分をはみ出させる構造を採る竹中家長屋門は稀なものの一つでした。市内でも有数の高さをもつこの門は、石組みの小路や松並木とともに、近世の庄屋屋敷の一端を伝えています。

所在地:吹田市山田東2-17-25



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2018-12-07(Fri)

紫雲寺

紫雲寺は吹田市にある浄土真宗の寺である。寺伝によると、初め行基によって、728(神亀5)年に徳谷(現、吹田市津雲台)の山中に、法相宗永安寺として創建された。その後、1559(永禄2)年に現在地に移転し、浄土真宗本願自派の寺として中興され、寺名も明光山紫雲寺と改められた。安永年間(1772~81)に再建された本堂内陣の格天井には、江戸時代後期に大阪で活躍した絵師の森狙仙によって描かれた82面の鳥獣画と、内陣左右の小壁に、蓮池図、翡翠の金碧画4面が残されている。蓮池図の落款には「狙仙」とあり、森狙仙の作と考えられている。狙仙は狩野派の絵画に飽き足らず、長崎で蘭画の手法を学び、丸山応挙とともに写生画を確立し、近代日本画を開いた1人といわれる。作品の大半がサルの絵であることから、「サル描き祖仙」とよばれる。狙仙の描くサルは、「伊藤若冲の鶏」「岸駒筆波の虎」「白井直賢のねずみ」と並び称された。天井画には、キジ、ツル、サギなどの鳥類が多く描かれ、中央には狙仙が得意とした「猿画」が2面見られる。記録から、1773(安永2)年頃に描かれたものとされる。

所在地:大阪府吹田市山田東2-18-17



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