2017-05-23(Tue)

薩摩藩蔵屋敷跡

大阪市西区土佐堀2丁目、三井倉庫の前にある「薩摩藩蔵屋敷跡」の碑。1868年(明治元年)正月、鳥羽伏見の戦いに際して、この蔵屋敷(上屋敷)と、江戸堀の中屋敷、立売堀の下屋敷の3屋敷の引渡しを幕府から要求され、これを拒絶したため陸奥会津藩兵が攻撃してくることを聞き、自ら火をはなった。この「薩摩蔵屋敷跡」は大阪市顕彰史跡に指定されている。

所在地:大阪府大阪市西区土佐堀2丁目4(三井倉庫の前)

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2017-05-23(Tue)

佐賀藩蔵屋敷跡

大阪市北区西天満4丁目、大阪高等裁判所の外周、植え込みの中に「佐賀藩蔵屋敷跡」の碑が建っている。

所在地:大阪府大阪市北区西天満2丁目1番10号

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2017-05-23(Tue)

高松藩蔵屋敷跡

大阪市北区中之島にあるリーガロイヤルホテルの前庭に「蔵屋敷跡」の石碑がある。当地は讃岐高松藩蔵屋敷跡があった場所である。江戸時代の学僧、慈雲尊者は1718年(享保3年)この高松藩蔵屋敷に生まれた。13歳のとき大坂田辺の法楽寺で得度し、畿内各地で修行研究を重ね、京都で伊藤東涯に儒学も学んだ。彼の代表的な著書で、インドの原典を注釈した「梵学津梁」1000巻は今日なお世界の驚異といわれている。

所在地:大阪府大阪市北区中之島5丁目3(リーガロイヤルホテルの前庭)

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2017-05-23(Tue)

近代製紙業発祥の地

この地は江戸時代熊本藩蔵屋敷であったが、明治になって後藤象二郎が経営する蓬莱社が払い下げをうけ 同八年(1875)二月にイギリス製の機械を用いて洋紙の製造をはじめた。これが日本の洋紙製造業の発祥という
(説明板)
近代製紙業発祥の地
この地は,明治八年(1875)に日本ではじめて洋紙がつくられた場所です。明治四年(1871)、大阪の商人平野屋五兵衛(ひらのやごへえ)がイギリスから洋紙をつくる機械を買ったことがきっかけとなりました。その機械を,高知出身の政治家、後藤象二郎が大阪の商人たちとつくった,蓬莱社という会社が譲りうけました。もとは熊本藩の蔵屋敷(くらやしき)であったこの土地に、製紙工場を建てて洋紙をはじめてつくったのです。その後、何回か会社の名前がかわりましたが、第二次世界大戦のころまで、この地に工場がありました。
大阪市教育委員会

所在地:大阪府大阪市北区中之島5-3-51

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2017-05-23(Tue)

雙松岡塾跡の碑

大阪市福島区福島1丁目、地方合同庁舎前の田蓑橋詰に建っている「雙松岡」の石碑。雙松岡学舎は、松本奎堂(けいどう)が、1861年(文久元年)昌平黌の同学、松林廉之助、岡千仞らと創設した。(塾の名は松本・松岡の2人の松と岡から採っている) 尊皇攘夷を鼓吹し、倒幕運動家の集合場所という疑いから、大坂町奉行所にも危険視され、翌年の文久2年、わずか半年で閉鎖されている。碑は1943年(昭和18年)の建立。松本奎堂:1832年(天保2年)三河・刈谷に生まれる。昌平黌に学び、1859年(安政6年)名古屋石町で塾を開いた後、大坂に移った。 1863年(文久3年)8月、孝明天皇大和行幸の詔が出たのを機に藤本鉄石、吉村寅太郎らと天誅組を組織して総裁となり、侍従中山忠光を奉じて出京したが、 政変によって形勢急変し、行幸は中止となった。
紀伊、彦根藩兵により追討され、十津川郷に南下し郷士と農兵の参加を募った。しかし諸藩兵の攻撃をうけ、吉野郡鷲家で自刃した。享年33歳であった。

所在地:大阪府大阪市福島区福島1丁目1-60(大阪中之島合同庁舎南東角)

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2017-05-23(Tue)

府立大阪医学校跡

明治12年(1879)西本願寺掛所内にあった大阪府病院は、府立大阪病院と改称し北区常安町に移ります。そして昭和6年(1931)設置の大阪帝国大学医学部のもととなるそうです。現在は大阪大学中之島センターになっています。石碑等はなし。

所在地大阪府大阪市北区中之島4-3-53

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2017-05-23(Tue)

梅花社跡

篠崎三島が安永5(1776)年に開いた儒学塾。三島は父の没後、二代目伊予屋長兵衛を襲名し、家業の紙問屋を経営していた。不惑の齢となって隠居して私塾を設け、庭に緑萼梅を植え、それにちなんで塾名を梅花社と称した。三島は、菅甘谷、麻田剛立らに学び、詩文・書芸に優れ天文学や卜占などにも通じていた。淡路国洲本の城主であった稲田氏に招かれて出講することもあった。文化10(1813)年に77歳で没した。寛政5(1793)年、三島は当時13歳であった門人、加藤金吾を養子に迎えた。9歳から梅花社に学んでいた秀才で、後に篠崎小竹と名乗り、塾を現在の今橋四丁目に移し、大坂で最も繁昌した私塾へと発展させた。

所在地:大阪府大阪市西区土佐堀1丁目(シェル石油肥後橋SS横)


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2017-05-20(Sat)

淀川改修紀功碑

淀川の洪水は古代からたびたびくり返され、そのつど大きな被害をうけていた。なかでも明治18年の氾濫は、ようやく近代的発展をとげようとする大阪とその周辺に、甚大な被害をもたらした。そのため淀川改修工事が急がれ、明治29年測量に着手、途中、日露戦争をはさみながらの困難な事業も同42年完了した。碑面には、その間の経緯を詳しく刻している。

所在地:大阪府大阪市北区長柄東三丁目3

国土交通省淀川河川事務所毛馬出張所前市バス「長柄東」下車北約300m


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2017-05-19(Fri)

毛馬城跡

元亀元年(1570)より始まった石山本願寺と織田信長との戦い(石山合戦)は、大阪の地を舞台に、一時的な和議を重ねつつ一進一退を繰り返した。織田信長は石山本願寺の周辺十箇所に付城を築いて包囲網を敷いたのに対し、本願寺では、高津・丸山・ひろ芝・正山・森口表・大海・飯満・中間村・鴫野・野江・楼の岸・勝曼・木津・難波など51か所にも及ぶ出城を構えた。毛馬城は、この石山方の出城の1つで、飯満(けま)、すなわち「毛馬」のことであろう。これが毛馬城の起源であるが、守将名や規模などはわからない。毛馬城は、半ば幻の城なのである。天正六年(1578)、信長に対して叛旗を翻した伊丹城の荒木村重を攻撃するため、織田方が塚口郷・毛馬村・倉橋郷・原田郡などに付城を築城した(「信長公記」)とされるも、この毛馬ではなく尼崎市内の食満(けま)のほうであろうという見方もある。
築城年:天正4年(1576年)
築城主:本願寺顕如光佐
所在地:大阪府大阪市都島区毛馬町4丁目7-26(善福寺)


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2017-05-19(Fri)

摂津県・豊崎県県庁所在地跡

大阪府の起源は明治元年で、翌明治2年1月20日、大阪府の一部を割いて摂津県がおかれ、摂津の国八郡(住吉・東成・西成・島上・島下・豊島・能勢・川辺)を管轄した。その仮庁舎として崇禅寺の建物の一つがあてられたようである。明治2年5月に豊崎県と改名されたが、その後も区域の変更が繰り返された。
所在地:大阪府大阪市東淀川区東中島5丁目27番崇禅寺内

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2017-05-11(Thu)

大阪府立盲学校発祥の地

大正3年(1914年)視覚障害者のために、吉田多市と志岐与市が大阪訓盲院をこの地で設立した。その後、西区内で2度の移転後、大正14年に天王寺区大道に校舎を新築して移転し、(社)天王寺盲学校と改称した。昭和13年に住吉区に移転し、現在に至る。2008年名称が府立視覚支援学校となった。
所在地:大阪府大阪市西区北堀江3-5

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2017-05-10(Wed)

天満の子守唄碑

かつて、この辺りには天満青物市場があり、そこで働いていた子守娘たちが歌ったものです。「ねんねころいち満の市で大根そろえて舟に積む舟に積んだらいやる鴎とりたや竹ほしや竹がほしけりゃ竹やへござれ竹はゆらゆら由良之助」といった調子で、木津村と難波村が歌詞に登場しますが、これは木津村や難波村の女性がよく働きに来ていたから、といいます。のちに木津村と難波村の住民は、天満市場のような青物市場を開きたいと懇願して、地元で木津市場を開きました。大坂・天満の民謡として歌い継がれ、近畿一円から四国、中国地方まで広まったといわれています。

所在地:大阪府大阪市北区天満3(南天満公園内)

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2017-05-10(Wed)

将棊島(しょうぎじま)跡碑

淀川の水が寝屋川、鯰江川に逆流して水害を引き起すので、それを防ぐために、河川の合流点の網島から天満橋を越えて236 間(約430 メートル)余りまで築かれた隔流堤です。島とついていますが、実際には岸から続いた半島です。

所在地:大阪府大阪市北区天満3(南天満公園内)

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2017-04-30(Sun)

天満青物市場跡の碑

堂島米市場、雑魚場魚市場と並ぶ大阪三大市場として、多くの人が往来し、賑わいを見せた。「摂津名所図会」にも、「日々、朝毎に多くの人が集りて菜蔬を賈う」とあり、ここで大阪近郊の品々と共に水運を利湯して運ばれ、「天下の台所」を実感させてくれる。

所在地:大阪府大阪市北区天満3丁目(南天満公園)

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2017-03-27(Mon)

宮水

宮水とは、今の兵庫県西宮市の西宮神社の南東側一帯から湧出する、日本酒つくりに適していると江戸時代後期から知られている水。灘五郷の酒造に欠かせない名水として知られる。 硬度が高く、リン含有量が多く、鉄分が少ない特徴がある。宮水を守るため、水質保全活動が以前からなされている。

○由来
天保8年(1837年)、一説には天保11年(1840年)、桜正宗の六代目蔵元であった山邑太左衛門(やまむらたざえもん)が摂津国西宮(現兵庫県西宮市)で発見したとされる。山邑太左衛門は西宮と魚崎(現神戸市東灘区)で造り酒屋を営んでいたが、双方で造る酒は、他の工程をすべて同じにしても味が異なった。西宮で造る酒の良質な味の原因について、彼は『同地にある梅ノ木蔵の「梅ノ木井戸」の水にある』と結論した。これを以て「宮水の発見」としている。当初、「西宮の水」と言っていたが、やがて略されて「宮水」と呼ばれるようになった。以後、灘の酒蔵は競ってこの地の水を使うようになったが、井戸を掘っても同じ水脈に当たらない酒蔵もあった。そのため、造り酒屋でなくても井戸を掘れば同じ味の水が出る地域の農民らが、井戸を掘り、そういう酒蔵に宮水を売るようにもなった。西宮に特有のこの商売をさして「水屋」といった。

○成分
梅ノ木井戸の近くを流れる夙川の伏流水と、六甲山の花崗岩を通り抜けてきた水に、塩分を含んだ海水が微妙にまじりあって湧いた水と考えられる。水質は、ドイツ硬度で8°dH前後の中硬水で、軟水の多い近畿地方では珍しい(日本国内では関東地方の水に近い硬度である)。宮水に多く含まれるミネラル成分(カルシウム・カリウム)およびリンは、麹や酵母の栄養分となり酵素の作用を促進する。また酒造りの水には少量の塩分の含有が好まれるが、宮水は塩分も多い。逆に酒造りに害となる鉄分は、宮水は0.001ppmと少ない(鉄分は、酒の色や味の仕上がりを損なう。一般的に日本の水の鉄分含有量はだいたい0.02ppm程度)。このように宮水が酒造りには理想的な有効成分を含むことは多くの点から説明できるが、現代の科学を以てしてもなおも、なぜ宮水がそれほどまでに酒造に好適であったのか解明されていない部分も残っている。

○歴史
幕末以後、昭和時代初期まで宮水は「播州米に宮水、丹波杜氏に六甲颪、男酒の灘の生一本」の名声をほしいままにするのに欠かせない原料となった。しかし昭和時代中期以降、高度経済成長の時代を迎え、西宮は阪神工業地帯の真っ只中に置かれ、宮水への汚染が危惧されることとなった。水質の汚濁が、この時期の何回かの調査でわかっている。酒郷組合等は宮水保全のための努力は継続して行っている。組合加盟蔵の中には大メーカーも含まれており行政や企業に対しても同等の発言力を有していることから、行政や企業もそれなりの対応を迫られるのである。例えば、阪神高速3号神戸線の橋脚は宮水地帯付近では間隔が極めて広く取られており、宮水の保全と産業発展の両立が図られている。その結果、阪神工業地帯の真ん中に位置するにもかかわらず保全状態としては奇跡的な状態が保たれ、環境省の名水百選に選ばれている。

所在地:兵庫県西宮市久保町~石在町周辺

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2017-03-27(Mon)

今津灯台

今津灯台は、兵庫県西宮市今津西浜町に所在する民営(酒造会社の大関株式会社が運営)の灯台。現役の航路標識として使われている灯台としては日本最古のものである。西宮市指定文化財。
○概要
現存する灯台は1858年(安政5年)に再建されたもの。高さ6m余り(基礎を含むと約6.7m)の木造袴腰付灯籠形・銅板葺屋根で、竜山石の基壇上に建てられている。灯火部分には格子が組まれているが、これは当初点灯に油皿を使用し、風雨を防ぐために油障子が貼られていた名残である。台石に刻まれた「象頭山常夜燈」の文字は、海上交通の守り神・金刀比羅宮に奉納された灯明台を意味している。地元の人々からは「灯篭」の愛称で親しまれた。

○沿革
今津郷の酒造家であった長部家によって1810年(文化7年)に設置され、樽廻船による日本酒をはじめとして、木綿、干鰯といった荷を積んで今津港を出入りする船の安全を守っていた。かつては毎晩大関の丁稚が油2合を携えて点灯に向かっていたが、大正時代には電灯となり、その後は周辺の明るさに応じて自動点火するようになっている。1968年(昭和43年)には航路標識として許可を受け、今津港が産業港からレジャーの場となった現代に至るまで灯台として現役であり続けている。2016年(平成28年)3月、灯台の沖合において、兵庫県が策定した「津波防災インフラ整備計画」による「新川・東川統合水門」の建設工事が着工。それに伴い、大関が灯台として継続使用するための移設を検討し(南側沖合付近などが候補地として挙げられている)、県が調整を行っている。

○年表
1810年(文化7年)-長部家5代長兵衛により設置。
1858年(安政5年)-6代文次郎によって再建。
1884年(明治17年)2月21日-灯台建設およびこれまでの看守による貢献が認められ、7代文治郎へ藍綬褒章と銀盃が授与される。
1965年(昭和40年)-解体修理。
1968年(昭和43年)11月1日-海上保安庁より大関酒造今津灯台として航路標識の許可を受ける。
1974年(昭和49年)-西宮市の文化財に指定される。
1984年(昭和59年)-創建当時の姿に復元(灯火部分の障子格子など)。
1990年(平成2年)11月-大関酒造が樽廻船をモチーフにした記念碑を建立。

○交通アクセス
灯台や記念碑に近づいての見学は可能だが、前述の工事に伴う仮囲いや資材等により景観が変化しているため、注意が必要である。
・鉄道
阪神久寿川駅下車 南西へ約1.3km
・バス
阪神バス「西谷町」バス停下車 南西へ約600m※阪神甲子園他より運行

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2017-01-06(Fri)

宮前山古墳横口石棺

大阪府南部、富田林市の宮前山古墳(1号墳)は、古墳時代終末期(7世紀頃)の有力豪族を埋葬した古墳です。周辺の土木工事に伴って、1962年に大阪大学文学部国司研究室によって緊急発掘調査が行われた結果、横口式石棺の周囲を丸石で取り囲んだ埋葬施設が発見されました。凝灰岩という柔らかい石材を用いたこの石棺は、他に類例がほとんどない珍しい形態で、表面には製作時のノミ跡も残る貴重な資料です。宮前山古墳は開発事業のために発掘後には消滅しましたが、石棺と石囲の一部がこの場所に移築されています。

所在地:大阪府豊中市待兼山町(大阪大学豊中キャンパス文学部の建物の中庭)


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2016-12-08(Thu)

佐藤漁丸墓所(安養寺)

佐藤漁丸墓所は江戸時代後期、寛政から文化年間(1789から1818頃)にかけ活躍した文人で、生没年とも不明、西区に生まれた商人であった。大坂の豪商、河内屋太郎兵衛を主人公にする滑稽本「川童一代噺」を出版し、強化では蝙蝠軒魚麻呂、浄瑠璃作家としては佐川籐太を名乗り活躍した。なお当寺には、近松「心中天網島」で有名な紙屋治兵衛の妻おさんの墓がある。おさんは夫の心中の後、当寺の尼になったという。

所在地:大阪府大阪市西成区岸里東1丁目7-15(安養寺)

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2016-12-08(Thu)

安倍寺塔刹柱礎石

安倍寺は、阿倍野区松崎町二丁目付近にあった奈良時代前期(掃くほうきの軒が藁・鬼瓦が出土した)の創建と考えられる寺である。この礎石(長さ2.07m、幅約1.5m、厚さ20㎝)は永く現地にあったが、ここ旧高津邸に移された。屋敷地は、後に大阪市に寄付され、天下茶屋公園になった。花崗岩の礎石には中央柱穴(直径61㎝、深さ13.5㎝)があり、その中には更に舎利穴(直径約10㎝、深さ約8㎝)が掘られている。市内における古代寺院の隆盛をしのばせる考古資料である。またここは「東海道中膝栗毛」にも登場する近江の是斎屋の一族が手広く薬屋を開いたところで、街道筋(紀州街道)に面していたこともあり繁盛した。

所在地:大阪府大阪市西成区岸里東1丁目16(天下茶屋公園)

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2016-12-02(Fri)

ムクノキ大明神

ここは江戸時代、高槻城三の丸の一角で、立派なムクノキがそびえていました。来た大手門から南へと続く大手道が折れる場所にあたり、その姿は「高槻城絵図」に象徴的に描かれています。当時は年1回、庶民が参加する盆踊りが城内で行われ、その接待所はムクノキ周辺されています。当時のムクノキは残っていませんが、現在は「ムクノキ大明神」として祠が建てられています。

所在地:大阪府高槻市大手町3番46号(高槻市商工会議所の前)


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2016-12-02(Fri)

東本願寺

東本願寺は、京都府京都市下京区烏丸七条にある真宗大谷派の本山の通称である。正式名称は、「真宗本廟」である。堀川七条に位置する「西本願寺」(正式名称「本願寺」)の東に位置するため、「東本願寺」と通称される。また、真宗大谷派(以降、大谷派)としても、「東本願寺」の通称を公式ホームページ・出版物などに用い、正式名称「真宗本廟」と併用している。他に、「お東」、「お東さん」とも通称される。2016年現在の門首は、平成8年(1996年)に継承した大谷暢顯(淨如)である。

○概要
大谷派の最高規範である『真宗大谷派宗憲』(以降、『宗憲』)には、「真宗本廟は、宗祖聖人の真影を安置する御影堂及び阿弥陀堂を中心とする聖域であって、本願寺とも称し、本派 の崇敬の中心、教法宣布の根本道場である」と規定 される。東本願寺(真宗本廟)は、包括宗教法人である「真宗大谷派」に包括される単位宗教法人(被包括宗教法人)ではなく、法人格を有していない。大谷派が管理する礼拝施設等(伽藍)の総称であり、宗教法人法による寺院ではない。

○建造物
東本願寺は、江戸時代に4度の火災に遭っており、その火災の多さから「火出し本願寺」と揶揄される。しかし、東本願寺が火元となったのは、文政6年(1823年)11月15日の火災のみである。現存建造物の多くはどんどん焼けの後、明治期の再建だが、建築・障壁画等は当時の技術の粋を集める。

・御影堂
御影堂は、境内のほぼ中心に位置する和様の道場形式の堂宇である。屋根は瓦葺きの重層入母屋造。外観が二重屋根であるため二層建築に見えるが、下部は裳階であり単層建築である。建築規模は、間口76m・奥行き58mであり、建築面積において世界最大の木造建築物である。現在の建物は、明治13年(1880年)に起工し、明治28年(1895年)の完成である。平成16年(2004年)3月から平成21年(2008年)12月にかけて、大規模修復が行われた。総工費は、約98億円である。堂内は、「内陣」・「外陣」・「参拝席」に分かれている。内陣は横に7つの室に分かれていて、中央の間を「内陣本間」と呼ぶ。「内陣本間」側から、左側の余間を「十字の間」・「九字の間」・「飛檐の間」と呼び、同じく右側の余間を「六軸の間」・「新六軸の間」・「御簾の間」と呼ぶ。「内陣本間」の中央に須弥壇上を設け、その上に「御厨子」を置き「御真影」(宗祖親鸞の坐像)を安置する。「内陣本間」の左右壇上には歴代門首の絵像が奉掛される。平時は、「十字の間」の床上の中央に「十字名号」(帰命尽十方無碍光如来)を奉掛し、その両脇に宗祖親鸞と現門首を除く「大谷派御歴代」の絵像を二幅に分けて奉掛する。「九字の間」の床上には、「九字名号」(南無不可思議光如来)が奉掛される。報恩講などの法要時は、奉掛される絵像やその配置などが変更になる。かつては「大師堂」と呼ばれた。その由来は、明治9年(1876年)に明治天皇から親鸞に対して「見真大師」の大師諡号が贈られたためである。昭和56年(1981年)に「宗憲」が改正された際、「見真大師」号が削除され、同時に大師堂の呼称が取りやめられ、御影堂の呼称に復した。

・阿弥陀堂
阿弥陀堂は、御影堂の南側に位置する禅宗様を取り入れた仏堂である。屋根は瓦葺きの単層入母屋造。建築規模は、間口52m・奥行き47mである。床面積比で御影堂の半分以下しかないが、仏堂の大きさとしては全国7位である。現在の建物は、明治13年(1880年)起工し、明治28年(1895年)の完成である。御影堂と同様に阿弥陀堂内も、内陣・外陣・参拝席に分かれている。内陣の本間中央に須弥壇を設け、その壇上の宮殿内に本尊 阿弥陀如来(木像・立像)が安置される。また、本間右側の壇上には聖徳太子の絵像が、本間左側の壇上には法然の絵像が奉掛される。内陣の「本間」から右側の余間を「北余間」と呼び、その床上に内側から龍樹・天親・曇鸞の絵像が、左側の「南余間」の床上に道綽・善導・源信の絵像が奉掛される。2004年3月から2008年12月にかけて行われた御影堂修復の際は、阿弥陀如来像の向って右側に御影堂より遷座した「御真影」を仮の「御厨子」に安置し、左側には蓮如の絵像・聖徳太子の絵像・七高僧の絵像(法然の絵像と六高僧の絵像)が奉掛された。また、阿弥陀堂で御真影を安置するために製作された仮の「御厨子」は、府中刑務所の講堂の本尊の厨子として利用される。平成21年(2009年)7月16日、御影堂を覆っていた修復用の素屋根がスライドして阿弥陀堂を覆う。平成23年(2011年)の「宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌」法要後、阿弥陀堂の修復工事が行われ、平成27(2015)年12月に完了した。工事では耐震補強もされた。

・御影堂門
御影堂門は、高さ約28mの入母屋造・本瓦葺き・三門形式の二重門。「真宗本廟」の扁額を掲げる。京都三大門(東福寺、知恩院)の1つである。明治44年(1911年)の再建。上層(非公開)には、釈迦如来像(坐像)を中央に、脇侍として向って右側に弥勒菩薩像(立像)、左側に阿難尊者像(立像)の三尊が安置され、浄土真宗の正依の経典「浄土三部経」の1つである『仏説無量寿経』の会座をあらわす。また、その手前には仏舎利が安置される。2013年1月、御影堂門の修復が開始され、2015年12月に完了した。

・参拝接待所
参拝接待所は、東本願寺(真宗本廟)の総合窓口である。昭和9年(1934年)に「志納所」に替えて建てられる。「真宗本廟収骨(須彌壇収骨)」「本山読経」「帰敬式」の申込・受付の他、本尊・蔵版の授与、懇志の受付などの窓口業務を行なう。平成10年(1998年)には、「蓮如上人五百回御遠忌」の記念事業として、参拝接待所北側地下に「真宗本廟視聴覚ホール」を増設した。また参拝接待所と視聴覚ホールの間に「展示ギャラリー」を併設する。

・総合案内所
総合案内所は、案内所としての機能の他に、休憩所や喫煙所、出版物販売部などがまとまっている建物である。 平成21年(2009年)、御影堂修復事業の一環として改修される。境内の諸施設を統合管理する「防災センター」を併設する。

・渉成園
渉成園は、近接する飛地境内にある池泉回遊式庭園。昭和11年(1936年)、国の名勝に指定される。別名、「枳殻邸」。

・同朋会館
同朋会館は、真宗同朋会運動の一環である「真宗本廟奉仕」の参加者のための研修宿泊施設である。昭和33年(1958年)11月に着工、翌年11月に完成。「仏祖崇敬の念を篤くする」「無上仏道を聞き開く」「同信同行の交りを深める」の3つの願いに立って、真に私自身の人間性を回復することを目的とする。

・しんらん交流館
しんらん交流館は、平成27年(2015年)に開設された教化センター。「しんらん交流館定例法話」や「東本願寺日曜講演」が開催される。所在地は下京区諏訪町通六条下る上柳町199。

○所蔵文化財
・国宝
教行信証(坂東本)全6冊-紙本墨書。正式名称は『顕浄土真実教行証文類』。鎌倉時代筆。真宗大谷派所蔵本は、もとは東京の坂東報恩寺が所蔵していたため「坂東本」と呼ばれ、現存する唯一の『教行信証』親鸞真蹟本である。 昭和27年(1952年)に、国宝に指定。
平成16年(2004年)3月、劣化の激しい同本を修復。

・重要文化財
絹本著色親鸞聖人像(安城御影〈あんじょうのごえい〉)-鎌倉時代作。83歳の頃の影像とされる。西本願寺蔵の原本は、国宝。
紙本著色『本願寺聖人伝絵』(康永本)4巻-康永2年(1343年)作。詞書(ことばがき)は、覚如筆。絵は、上2巻は康楽寺円寂、下2巻は、康楽寺宗舜による筆。
紙本著色『本願寺聖人親鸞伝絵』(弘願本)4巻-貞和2年(1346年)作。各巻末に「釋弘願」の法名が署名されているため、弘願本と通称される。詞書(ことばがき)は、善如筆。
紙本『一念多念文意』親鸞筆-鎌倉時代作。

・登録有形文化財
御影堂
阿弥陀堂
大寝殿
大玄関
鐘楼
造合廊下
二筋廊下
御影堂門
阿弥陀堂門
菊の門
玄関門
阿弥陀堂門南側築地塀
御影堂門南側築地塀
御影堂門北側築地塀
菊の門北側築地塀
玄関門北側築地塀

○行事
・平時行事
特別な儀式・法要・行事のない日の予定。儀式・法要などが営まれる日は、日程および時間を変更する場合がある。
7:00 晨朝勤行(阿弥陀堂・御影堂)
7:30 晨朝法話(御影堂)-12月27日?31日はなし。
10:10 真宗本廟法話(真宗本廟視聴覚ホール)-12日・27日はなし。
11:00 真宗本廟収骨・読経・帰敬式-12日・27日は取扱いなし。
13:10 真宗本廟法話(真宗本廟視聴覚ホール)-28日はなし。11月21日?28日は御影堂にて開催。
14:00 真宗本廟収骨・読経・帰敬式-28日は取扱いなし。
14:00 しんらん交流館定例法話(しんらん交流館・すみれの間)-12日・27日は10:00に、13日・28日は14:30に時間を変更して開催。
16:00 夕事勤行
毎週日曜9:30 東本願寺日曜講演(しんらん交流館・大谷ホール)

・年中行事
日程は、変更になる場合がある。修正会(1月1日?7日)
春季彼岸会法要 (春分の日前後各3日を合わせた7日間)期間中に永代経総経が厳修される。
春の法要(4月1日?3日)
春の法要中の主な行事 1日-師徳奉讃法要・親鸞聖人御誕生会2日-全戦没者追弔法会3日-相続講員物故者追弔会 兼 帰敬式受式物故者追弔会立教開宗記念法要(4月15日)
蓮如上人御影吉崎別院御下向式(4月17日)
蓮如上人御影吉崎別院御帰山式(5月9日)
盂蘭盆会法要(7月14日?15日〈8月13日?16日〉)
秋季彼岸会法要(秋分の日前後各3日を合わせた7日間)…期間中に永代経総経が厳修される。
御正忌報恩講(11月21日?28日)…宗祖親鸞の祥月命日である11月28日までの1週間に勤められる法要で、年中行事の中で最重要行事とする。
御正忌報恩講中の主な行事 21日-初逮夜(しょたいや)22日-初晨朝(しょじんじょう)・初日中24日-中逮夜25日-中晨朝・中日中・『御伝鈔』拝読27日-結願逮夜(けちがんたいや)・「御俗姓」拝読28日-(御満座)、結願晨朝・結願日中・坂東曲(ばんどうぶし)お煤払い(12月20日)
歳末昏時勤行(12月31日)

○年表
文禄元年(1592年)11月24日、本願寺十一代 顕如の示寂にともない顕如の長男である教如(光寿)が本願寺を継承する。この時、石山合戦で篭城した強硬派を側近に置き、顕如と共に鷺森に退去した穏健派は重用しなかったため、教団内に対立が起こる。
文禄2年(1593年)閏9月、教如は豊臣秀吉の命により退隠させられ、准如に法主が継承する事が決定する。
慶長7年(1602年)2月、後陽成天皇の勅許を背景に徳川家康より烏丸六条に寺地を寄進され、教如は本願寺の第十二代に就任する。このことにより本願寺は、「堀川七条の本願寺」と「烏丸六条の本願寺」とに分立する。
慶長8年(1603年)11月10日、阿弥陀堂が落成する。
慶長9年(1604年)9月16日、御影堂が落成する。
承応元年(1652年)、規模拡大のため御影堂の再建に着手する。
明暦4年/万治元年(1658年)3月28日、御影堂が落成する。
寛文7年(1667年)、規模拡大のため阿弥陀堂の再建に着手する。
寛文10年(1670年)3月15日、阿弥陀堂が落成する。
元治元年(1864年)7月20日、禁門の変を発端とする兵火が元となり、京都市街は「どんどん焼け」と呼ばれる大火災となる。東本願寺も罹災し、御影堂・阿弥陀堂・渉成園など伽藍の大部分を消失する。
昭和52年(1977年)11月2日、東本願寺爆破事件が起きる。
昭和56年(1981年)6月11日、新『真宗大谷派宗憲』(「新宗憲」)発布。宗憲改正にともない、「法主」を廃して「門首」を新たに設け、本願寺住職および管長の役職を廃止した。
昭和62年(1987年)12月、「宗教法人本願寺」を宗教法人法に基づいて解散の登記を行い、「宗教法人本願寺」は「宗教法人真宗大谷派」に吸収合併される。このことを「宗本一体」という。当時の法主は、第二十四代法主 闡如。合併により「東本願寺」は、法人格を有さない寺院となり、真宗大谷派の本山としての礼拝施設となる。正式名称は「真宗本廟」に変更される。また、「東本願寺」の通称も公式に併用している。
平成15年(2003年)11月、「宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌」の特別記念事業の一環として行われる「御影堂修復」のため、「御影堂」に安置している「御真影」(宗祖親鸞の坐像)を「阿弥陀堂」へ移す、「御真影動座式」を執り行う。「御真影」は、「阿弥陀堂」の本間右側に新たに設けた仮の「御厨子」に安置する。
平成16年(2004年)3月4日、「真宗本廟御影堂御修復起工式」を執り行う。修復は、非解体修理を基本とし、素屋根工事、瓦葺き替え工事、御厨子・須弥壇の修復を含む内陣・外陣等の美装工事、大虹梁鉄骨補強補強を含む構造補強工事、耐震補強工事、土居葺工事、木工事、金属工事、外部鋩金物工事等の大規模修復である。
平成21年(2009年)8月3日、「御影堂」において「真宗本廟御影堂修復竣工式」が執り行う。
同年9月30日、「阿弥陀堂」に安置していた「御真影」を「御影堂」の「御厨子」に戻す、「宗祖親鸞聖人御真影還座式」を執り行う。
同年11月20日、「御影堂御修復完了奉告法要」を厳修する。

○アクセス
所在地-京都府京都市下京区烏丸通七条上ル常葉町754番地
京都駅より徒歩7分。
地下鉄烏丸線五条駅より徒歩5分。
京都市営バス烏丸七条バス停より徒歩1分。

○開門・閉門時間
3月?10月-5時50分開門、17時30分閉門。
11月?2月-6時20分開門、16時30分閉門。

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2016-11-29(Tue)

湊川の戦い

湊川の戦いは、南北朝時代の1336年((建武3年)5月25日)に、摂津国湊川(現・兵庫県神戸市中央区・兵庫区)で、九州から東上して来た足利尊氏・足利直義兄弟らの軍と、これを迎え撃った後醍醐天皇方の新田義貞・楠木正成の軍との間で行われた合戦である。

○背景
この年の初め、足利尊氏は新田義貞・楠木正成・北畠顕家らに敗れて京都を追われ九州へ落ち延びていた。ここで、正成が後醍醐天皇に、状況が宮方に有利な今のうちに足利方と和睦する事を進言するが、後醍醐はこれを退け、義貞を総大将とする尊氏追討の軍を西国へ向けて派遣した。なお、正成は和睦を進言した事で朝廷の不信を買い、この追討軍からは外され、国許での謹慎を命じられた。義貞は播磨国の白旗城に篭城する足利方の赤松則村(円心)を攻めている間に時間を空費し、この間に尊氏は多々良浜の戦いで九州を制覇して体制を立て直すと、京都奪還をめざして東進をはじめた。尊氏は高師直らと博多を発ち、備後国の鞆津を経て、四国で細川氏・土岐氏・河野氏らの率いる船隊と合流して海路を東進した。尊氏軍の東上に遭い、撤退を始めた新田軍に赤松勢が追撃を仕掛け、新田軍は大量の寝返りや足利軍への投降者を出しながら敗走した。一気に陣営がやせ細ってしまった義貞は、兵庫まで兵を退いて体制の立て直しを図った。

○経緯
後醍醐天皇は正成に兵庫で足利軍と戦うよう命じ、援軍として差し向けた。水軍を用意できなかった新田軍は、本陣を二本松(和田岬と会下山の中間)に置き、和田岬にも義貞配下の脇屋義助・大館氏明などの軍勢を配置して水軍の上陸に備えた。楠木軍は湊川の西側、本陣の北西にあたる会下山に布陣した。合戦では、足利直義を司令官とする陸上軍の主力数万の大軍は西国街道を進み、少弐頼尚は和田岬の新田軍に側面から攻撃をかけた。また、斯波高経の軍は山の手から会下山に陣する楠木正成の背後に回った。さらに、細川定禅が海路を東進し生田の森(神戸市三宮、御影付近)から上陸すると、義貞は退路を絶たれる危険を感じて東走し、楠木軍は孤立する。ここで誰も居なくなった和田岬から、悠々と尊氏の本隊が上陸した。楠木正成は重囲に落ち、奮戦するものの多勢に無勢はいかんともしがたく、楠木軍は壊滅。正成は弟の楠木正季ら一族とともに自害した。建武の新政にて功績を上げた武士で安芸国有力在庁官人の石井末忠も戦死した。新田義貞は西宮から軍勢を返すと、生田の森を背にして足利軍と激しく激突した。合戦は「新田・足利の国の争ひ今を限りとぞ見えたりける」との激しさに及んだ。合戦の規模からすると、新田と足利の合戦が湊川の合戦の本戦と呼べる。しかし、兵力差は歴然であり宮方は敗北、義貞は求塚において源氏重代の鬼切、鬼丸の太刀を振るって奮戦し、大将みずから殿軍を務めて、味方を都へと退却させた。この際、窮地に陥ったところ配下の小山田高家が駆けつけ、身替わりとなって義貞の命を救ったという。高家は秩父平氏・小山田氏の系譜を引く武将と見られ、建武3年3月に播磨で刈田狼藉を行い軍令違反に問われていたが義貞に赦免され、その恩義から義貞の身代わりになったという。ただし、この逸話は『太平記』古本には見られず、後世の加筆である可能性が考えられている。当時の神戸市付近は、現在よりも海面が高かったこともあり、今以上に海が六甲山地に迫っていて平地が狭く、大軍の行動には適さなかった。そのため、宮方は水軍を全く持っていなかったことが決定的な敗因となった。

○後世への影響
湊川の戦いや、正成が出陣前に嫡子の楠木正行を本拠地の河内国へ帰した「桜井の別れ」などは、勝ち目のない戦と知りながら天皇のために忠義を尽くして死んだとして講談などで人気を博し、戦前の皇国史観教育や唱歌などでも盛んに取り上げられた。 現在の兵庫県神戸市中央区には、正成・正季兄弟終焉の地として楠木一族を祭神に祀った湊川神社があり、徳川光圀自筆の「嗚呼忠臣楠子之墓」の石碑などが存在する。太平洋戦争末期の1945年3月21日の九州沖航空戦の際、神風特別攻撃隊第一神雷桜花隊、第一神雷攻撃隊(桜花とその母機である一式陸上攻撃機で編成された攻撃隊)は、九州南方沖に迫ったアメリカ海軍高速空母機動部隊に対する攻撃に出撃したものの、敵の艦上戦闘機部隊の迎撃により全滅した。この部隊の指揮官であった海軍少佐野中五郎は、鹿屋基地を出撃する際に、「これは湊川だよ(湊川の戦いのようなものだよ)」と嘆息したと言われている。また、正成は当初、京都から撤退し足利軍を京都に引き入れた後に挟撃する作戦を主張したのに対し、公家の坊門清忠がたびたびの動座(天皇の行在所への移動)は体面が悪いとしてこれを退け、結果として敗北に終わったことから、昭和の軍部における、内閣からの指揮を拒否する思潮の論拠のひとつともなった。


2016-11-29(Tue)

四條畷の戦い

四條畷の戦いは、南北朝時代の1348年(正平3年/貞和4年)1月5日、河内国北條(大阪府四條畷市・大東市)における、南朝方の楠木正行と足利尊氏の家臣高師直との間の戦い。また、四條縄手という地名や、味方であった水走氏が東大阪市五条町に館があったことなどから、大阪府東大阪市の四条(縄手)付近で戦いがあったという説もある。
○背景
1336年(延元元年/建武3年)、楠木正成が湊川の戦いで敗死してから、楠木氏はしばらくの間鳴りを潜めていた。正成の子楠木正行が成長すると、本拠地である河内国南部で次第に力を蓄え、摂津国南部の住吉・天王寺周辺までゲリラ的に出没し、足利方を脅かすようになった。1347年(正平2年/貞和3年)9月、楠木軍は藤井寺近辺で細川顕氏を破り、11月には住吉付近で山名時氏を破った。

○経過
足利方は本格的な南朝攻撃を決意し、ついに1348年1月に高師直を大将とする大軍を編成して、北上する楠木軍と四條畷に対峙した。楠木軍は足利方の圧倒的な兵力の前に敗れ、正行は弟の正時と刺し違えて自決した。勢いに乗った高師直は、南朝の本拠吉野(奈良県吉野郡吉野町)に攻め入り陥落させ、後村上天皇はじめ南朝は賀名生(同県五條市)に逃れた。戦後、楠木氏は楠木正儀が後を継ぐ。『太平記』では、楠木軍が少数の兵で突撃し、あと一歩で師直の首を取るところまで迫ったように描かれているが、実際には兵力の差は歴然で、楠木軍の惨敗だったようである。



2016-11-27(Sun)

敏馬神社

敏馬神社は、神戸市灘区岩屋中町にある神社。式内社で、旧社格は県社。国道2号と 国道43号が東から西へ1本に重なる道路に北接する丘の上に鎮座する。阪神電鉄 岩屋駅の南東約150m。

○祭神
敏馬は、古く、?売、美奴売、三犬女、見宿女等の文字で書かれることもあった。現在は素盞嗚尊を主祭神とし、天照皇大神・熊野坐神を配祀しており、江戸時代までは「牛頭天皇」と称していた。本来の祭神はミヌメ神(美奴売神・敏馬神)であった。ミヌメ神はその神名から水神の弥都波能売神と同神とみられ、現在では境内社の水神社に弥都波能売神が祀られている。閼伽井あるいは三犬女清水と呼ばれる井戸がある。この女神の名を、敏馬とする説が有力。他に、柿本人麻呂の歌「玉藻刈る 敏馬を過ぎて 夏草の 野島の崎へ 舟近づきぬ」からの発想であろうか、藻塩を製造する時に使用する海松(ミル)からとする説もある。

○歴史
『摂津国風土記』逸文に当社創建に関する記述がある。神功皇后が新羅征伐に出発する際、川辺郡神前松原(現在尼崎市の神崎もしくは豊中)で戦勝祈願したとき、猪名川上流の能勢の美奴売山(大阪府豊能郡三草山)の神が来て、美奴売山の杉の木を切って船を作れば必ず勝利すると告げた。その通りにして勝利を納めた帰途、古代には南に突き出した岬となっていた当地の沖で船が動かなくなり、船上で占いをするとこれは美奴売山の神の意志であるとわかったので、そこに美奴売神を祀ったという。これはある程度史実を伝えている模様で、住吉大社神代記にも猪名川の女神と武庫川の女神が住吉大神の気を引くために、互いに競ったことが記されている。摂津国風土記逸文に、豊受大神が丹波国に遷座する前は、摂津国稲倉山(所在不明)に居たことが記されているが、この稲倉山は猪名川上流域(豊能郡?)にあったのではないかとの説がある。延喜式の玄蕃寮の項には、特に、新羅より賓客が来朝したとき、生田神社で醸した酒を、当地にてふるまったことが見える。難波の鴻臚館でも酒をふるまっているので、当地で酒をふるまうことは一種の儀式だった。延喜式神名帳では「摂津国八部郡 ?売神社」と記載され、小社に列している。都から現在の大阪を経て、西国に船で向かうときの最初の宿泊港であり、西国から都に戻る時、大和を意識させる生駒山などが見え出す地でもあることから、柿本人麻呂、大伴旅人、田辺福麻呂はじめ、多くの歌人によって、和歌が当地で詠まれた。江戸時代には、俳人の与謝蕪村も兵庫の北風家に立ち寄る途中、度々訪れている。西国街道(浜街道)に面していたので、様々な遊戯施設が設けられ、陸からも、海からも、参拝者が訪れ、賑やかであった。明治6年(1873年)8月に村社に列格し、昭和5年9月に県社に昇格した。昭和20年6月5日、戦災により社殿を焼失し、昭和27年に再建された。本殿のある丘の下に湧水があったが、阪神・淡路大震災で涸れてしまった。

○縁切りの神
古来より、この神社の前を、離縁を恐れて花嫁行列は通らない。女神が嫉妬するからだと言われているが、縁切りでも有名で、様々な縁切の方法が伝えられている。

○例祭
10月10日

○所在地
兵庫県神戸市灘区岩屋中町4-1-8

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2016-11-23(Wed)

大阪英語学校跡

明治維新後、大阪では舎密局に始まった陽学校とが学校が合併し、大阪開成所が開講した。洋学校の最先端校である。開成所は第4(後に第3)大学区第1番中学、第3大学区開明学校と改称され、明治7年(’1874)4月に大阪外国語医学校となった。外国語を集中的に習得させることを目的に、当時第7大学区あった大学区に1校づつ外国語学校を設置するという政府の方針に伴うものである。12月には大阪英語学校に改称。この学校では、単に語学だけでなく、文系理系の幅広い分野の一般教養科目の授業を外国語で行った。英語学校は、明治12年(1879)まで続いたが、その後、頻繁に校名が変遷し、やがて第三高等学校に至る。明治22年(1889)には京都に移転し、現在の京都大学へと発展する。

所在地:大阪府大阪市中央区谷町2丁目3番

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2016-11-23(Wed)

松瀬青々生誕地

俳人。明治2年(1869)、現在の北浜4丁目に生まれる。明治32年(1899)、上京して「ホトトギス」の編集に従事するが、すぐに大阪に舞い戻る。俳句雑誌「宝船」を主宰。「宝船」はのちに倦鳥と改題される。大阪俳壇の基礎を築き、昭和12年(1937)没。

所在地:大阪府大阪市中央区北浜4-6(三井住友銀行東玄関前)

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2016-11-23(Wed)

手形交換所発祥の地

明治12年(1879)12月、この地に大阪交換所(後の大阪手形交換所)が開設され、我が国最初の手形交換を始めた。東京での開設は、これより8年後であった。以来100年、手形取引の健全な育成と大阪経済の発展に貢献した。

所在地:大阪府大阪市中央区北浜4-6(三井住友銀行本店東玄関前)

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2016-11-19(Sat)

相楽園

相楽園は兵庫県神戸市中央区にある広さ20,000m2の都市公園・日本庭園。日本の文化財保護法に基づく登録記念物の最初の登録物件である。ツツジの名所として知られる。

○概要
三田藩士・小寺泰次郎が幕末から明治維新の混乱で困窮する三田藩の財政を立て直すべく、九鬼隆義、白洲退蔵(白洲次郎の祖父)らとともに神戸で事業を起こし実業家として成功を収め、小寺の私邸として建設されたもので、1885年頃から築造を始め1911年に完成させた広大な庭園と邸宅である。当初「蘇鉄園」と呼ばれていたが1941年に神戸市が譲り受け、名称を中国易経にある「和悦相楽」より取った「相楽園」と変えて一般公開されるようになった。庭園の形式は池泉回遊式を基本としているが、西洋文化の影響をうけて広場が設けられている。戦前までは園内に小寺家本邸をはじめとする多数の建造物があった。しかし西洋風の旧小寺家厩舎(重要文化財)以外は全て1945年6月の神戸大空襲により焼失した。現存する大楠や蘇鉄林、大灯篭、塀、門などから失われた邸宅の雄大さをうかがうことができる。第二次大戦後になって神戸市生田区(現・中央区)北野町から旧ハッサム住宅(重要文化財)が移築保存され、神戸市の迎賓館施設として相楽園会館、茶室「浣心亭」が建設され、さらに神戸市垂水区から船屋形(重要文化財)が移設されて現在の景観に至る。

○施設
船屋形(1682年~1704年間に建造、神戸市垂水区から移設、1953年8月国の重要文化財に指定)
旧ハッサム住宅 (1902年築、神戸市生田区(現・中央区)北野町から移築、1961年6月国の重要文化財に指定)
旧小寺家厩舎 (1908年築、1970年6月国の重要文化財に指定)
相楽園会館
茶室「浣心亭」
池泉回遊式日本庭園

○利用情報
開園時間-午前9時~午後5時(入園は午後4時30分まで)
休園日-毎週木曜日(祝日の場合は開園、翌日休園)、年末年始、菊花展期間は無休

○所在地
〒650-0004兵庫県神戸市中央区中山手通5-3-1

○交通アクセス
神戸市営地下鉄西神・山手線県庁前駅徒歩5分
阪急神戸高速線花隈駅徒歩10分
阪神本線元町駅徒歩10分
JR神戸線元町駅徒歩10分

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「旧小寺家厩舎」
旧小寺家厩舎は兵庫県神戸市中央区の相楽園内にある西洋スタイルの厩舎建築。建築家河合浩蔵の設計で1910年に竣工したもの。1970年に国の重要文化財に指定されている。この建物は相楽園を築いた実業家小寺泰次郎の息子である元神戸市長・小寺謙吉が園内の一角に建てたもの。相楽園に残っている戦前の数少ない遺構の一つである。建物平面はL字型、 1階は左側が馬車庫で右側が馬房、2階は厩務員宿舎という用途で、1階が煉瓦造、2階が木骨煉瓦造という構造である。外観は円型塔屋や急勾配の屋根・屋根窓と切妻飾り等々、ドイツ民家風の重厚な意匠に飾られている。
○建築概要
設計―河合浩蔵
竣工―1910年頃
構造―煉瓦造2階建て(2階部分は木骨煉瓦造)、一部吹抜、塔屋付、スレート葺
建築面積―188.1m2
所在地―〒650-0004兵庫県神戸市中央区中山手通5-3-1相楽園内

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「旧ハッサム住宅」
旧ハッサム住宅は兵庫県神戸市中央区にある異人館。設計はシュエケ邸や門邸など数々の異人館を手がけたA.N.ハンセル(Alexander N. Hansell)といわれている。竣工は1902年。広大な日本庭園を望む南側ベランダは、1階がアーケード式、2階がコロネード式で、邸の外観上の特徴になっている。明治時代の異人館の特徴を伝える名建築として評価され、1961年6月7日に国の重要文化財に指定されている。
○歴史
1902年に神戸市中央区北野町2丁目の旧ドレウェル邸(ラインの館)北側にインド系イギリス人貿易商J.K.ハッサム(J.K.Hassam)の邸宅として建てられた。1961年に当時の所有者である神戸回教寺院が神戸市に寄贈し、1963年に元町の山手にある相楽園内に移築保存された。1995年の阪神・淡路大震災では、煉瓦積の煙突が室内配膳室に落下するなどの被害があったが修復され、現在に至る。落下した煙突は震災の記録として前庭の一角に展示されている。前庭に建つ2本のガス灯は1874年頃に旧居留地の街灯として設置された、現存する日本最古級のガス灯である。
○利用情報
相楽園閉園日―毎週木曜日定休、祝祭日にあたる場合は開園、翌日休
邸内公開時期4月20日~ 5月31日(毎週木曜日定休、祝祭日にあたる場合は開園、翌日休)10月20日~11月23日(期間中無休)
公開時間午前9時~午後4時30分
○建築概要
建築主―J.K.ハッサム
設計―A.N.ハンセル (推定)
竣工―1902年(明治35年)
構造―木造2階建、寄棟造、桟瓦葺、外壁下見板張、ベイウインドウ、鎧戸、ペジメント
延床面積―397.58m2(1階173.61m2、2階179.73m2、地階5.42m2、附属棟29.18m2、倉庫9.64m2)
所在地―〒650-0004兵庫県神戸市中央区中山手通5-3-1相楽園内

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「船屋形」
船屋形は、兵庫県神戸市中央区の相楽園内にある歴史的建造物"川御座船"である。御座船とは江戸時代に大名が参勤交代や遊覧に使用した船を言い、今日まで残っているものは数件である。なかでもこの船屋形は川御座船としては唯一現存するもので、その希少性と歴史的文化的価値の高さから1953年(昭和28年)に国の重要文化財に指定されている。この建物は江戸時代、姫路藩(姫路市)で使用されていた川御座船の屋形部分にあたる。建造年については、飾り金具の本多氏家紋の痕跡から1682年から1704年の間とされている。幕末は飾磨港(現在の姫路港)にあったが、明治になって移築する際に船体部分が破棄され屋形部分も大幅に改変された。昭和14年、垂水区舞子に復元移築され、1980年(昭和55年)には現在の相楽園に移築された。
○建築概要
建造年-天和2年(1682年)から宝永元年(1704年)の間(推定)
構造-木造2階建、桁行五間、梁間一間、一重二階、切妻造段違、檜皮葺
建築面積-43.74m2
所在地-〒650-0004兵庫県神戸市中央区中山手通5-3-1相楽園内
重文指定年月日-1953年(昭和28年)8月29日


2016-11-18(Fri)

本願寺神戸別院

願寺神戸別院は、兵庫県神戸市中央区下山手通にある浄土真宗本願寺派の寺院である。同派本山の西本願寺(京都市)直属の別院である。「モダン寺」の愛称でも呼ばれている。その昔、摂津国八部郡二つ茶屋村に寺舎が築かれ、寛永十六年(一六三九)年に第十三代良如宗主より寺号を授与された善福寺を前身としている。1917年の本堂焼失後、大谷光瑞、大谷尊由らの手により復興が進められる。尖塔や壁面彫刻などインド様式を取り入れた斬新な建築様式で知られ、異国情緒豊かな5つの尖塔とステンドグラスが非常に美しい。本堂の前には親鸞聖人のブロンズ像が建立されている。1995年改築後は、ホールや会議室などを備えた多目的施設も備えており、仏前結婚式も行われる。本堂は、別院では珍しく内陣に畳を用いず、椅子席規範に準拠した門主席、新門・前門席、礼盤及び内陣となっている。インド様式を取り入れた寺院は、同じ西本願寺の別院である本願寺名古屋別院、直轄寺院である築地本願寺がある。

○略年表
1639年(寛永16年)-摂津国八部郡二つ茶屋村、善福寺に第十三代良如宗主より寺号を授与され創建
1917年 (大正6年)-木造の本殿が焼失
1929年(昭和4年)-6月、印度式、鐡筋コンクリート造の大寺院が落成
1995年 (平成7年)-老朽化に伴い改築され、現在の建物が完成

○所在地
兵庫県神戸市中央区下山手通8-1-1

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2016-11-12(Sat)

生田神社

生田神社は、兵庫県神戸市中央区下山手通一丁目にある神社である。式内社(名神大)で、旧社格は官幣中社。同じ兵庫県内の廣田神社・長田神社とともに神功皇后以来の歴史を有する。かつて、現在の神戸市中央区の一帯が社領であり、これが「神戸」という地名の語源となる。地元では「生田さん」として親しまれており、初詣時期にはもちろん、それ以外の時期にも参拝客が絶えない。
○祭神
稚日女尊である。「稚く瑞々しい日の女神」を意味し、天照大神の幼名とも妹とも和魂であるともいわれている。

○歴史
201年に神功皇后の三韓外征の帰途、神戸港で船が進まなくなった為神占を行った所、稚日女尊が現れ「吾は活田長峡国に居らむと海上五十狭茅に命じて生田の地に祭らしめ。(=私は“いくた”の“ながさの国”におりたいのです。“うなかみのいそさち”に命じて生田の土地に祀らせてほしい)。」との神託があったと日本書紀に記されている。当初は、現在の新神戸駅の奥にある布引山(砂山(いさごやま))に祀られていた。799年(延暦18年)4月9日の大洪水により砂山の麓が崩れ、山全体が崩壊するおそれがあったため、村人の刀祢七太夫が祠から御神体を持ち帰り、その8日後に現在地にある生田の森に移転したといわれている。

平城天皇の806年(大同元年)には「生田の神封四十四戸」と古書には記され、現在の神戸市中央区の一帯が社領であった所から、神地神戸の神戸がこの地の呼称となり中世には紺戸、近年に神戸と呼ばれるようになった。神階は859年(貞観元年)に従一位に昇進した。延喜式神名帳では「摂津国八部郡 生田神社」と記載され、名神大社に列し、月次・相甞・新甞の幣帛に預ると記されている。近代社格制度のもとで1871年(明治4年)に県社に列格し、その後1885年(明治18年)に明治天皇の西国巡幸の際、初めて官幣社に列し官幣小社に、1896年(明治29年)には官幣中社に昇格した。社殿は、1938年(昭和13年)の神戸大水害・1945年(昭和20年)の神戸大空襲・1995年(平成7年)の阪神・淡路大震災など何度も災害などの被害にあい、そのつど復興されてきたことから、「蘇る神」としての崇敬も受けるようになっている。

○伝説・伝承
799年の大洪水の際、社の周囲には松の木が植えられていたが、洪水を防ぐ役割を全く果たさなかった。その故事から、今でも生田の森には1本も松の木は植えられていない。また過去には能舞台の鏡板にも杉の絵が描かれ、元旦には門松は立てず杉飾りを立てる。元あった布引丸山(または砂山とも呼ばれる)場所には旭の鳥居という一の鳥居があり初日の出の日であっても影が出来ない鳥居があるとされる。宮司である加藤隆久『生田神社』(学生社、2005年)に歴史も含め詳しい説明がある。能の生田敦盛では、敦盛の遺児が賀茂明神への祈誓により当地にて亡き敦盛と対面する。

○境内
鳥居の向こうに楼閣・本殿があるが、他にも脇社として蛭子神社および稲荷社・弁天池などがある。また、「謡曲生田敦盛」の碑や、地元飲食店や食品間連企業などの寄付で作られた包丁塚・震災復興祈念碑・楠の神木がある。柱に書かれた寄進者名には、ホテルあるいは海洋関係の企業も多い。包丁塚は、1993年(平成5年)10月25日に建立された。境内北側に鎮守の森が広がっており「生田の森」と呼ばれている。

○分社
生田神社兵庫御旅所

○生田神社界隈
三宮駅の南西、生田ロードの先端に一の鳥居がある。そこから参道はセンター街を抜けて北上し、生田新道を越えた東急ハンズの北東脇に社号標と二の鳥居がある。境内にはいると時間貸しの駐車場があり、その先に三の鳥居と御神門がある。 境内には幾多の歌にも詠まれた「生田森」が残っており、かつては源平の戦場にもなった森が今では市民の憩いの場になっている。
秋とだに吹きあへぬ風に色かはる 生田の杜の露の下草(藤原定家 続後撰和歌集)
津の國の生田の杜に人はこで月に言とふ夜はのあきかぜ(中務卿宗尊親王 新後撰和歌集卷第五秋歌下)

○年中祭事
・1月-3月
初詣/歳旦祭(1月1日・中祭)
日供始祭 翁面掛け神事(1月2日)-翁面掛神事も兼ねて行い、先着で近くで見物可能
元始祭(1月3日・大祭)
氏子年頭拝(1月10日前後)
注連縄焼却神事(1月16日)
節分祭/豆撒き神事(2月3日)-本殿にて節分祭、境内特設櫓から福豆を撒く
紀元祭(2月11日・中祭)
祈年祭(2月17日・大祭)
生田稲荷神社祭/餅まき神事(3月中旬)
・4月-6月
曲水の宴/春献茶祭(4月上旬)-生田の森に於いて開宴
生田祭例祭/氏子奉幣祭(4月15日・大祭)-氏子・地域神戸の安全繁栄を願う祭典
生田祭神幸式(御渡り式)(4月例祭の近日)-生田神社周辺と当番地区を練り歩き、安全繁栄を願う祭典
・7月-9月
夏越大祓式(茅の輪くぐり)(7月15日)-参道中央に厄払いの茅の輪を設置
道饗祭/千燈祭(7月15日)-夏越大祓式の後に開催
大海神社祭(夏祭)(8月3日・宵宮祭/4日・本祭/5日・礼代祭)
古式祭(9月19日・中祭)
秋季大祭/氏子奉幣祭(9月20日・大祭)-氏子・地域神戸の安全繁栄を願う祭典
秋祭神賑行事(薪能・雅楽の夕べなど)(9月19日-23日)-秋祭り期間中に、芸術文化や神事を開催
秋献茶祭(秋祭り期間中)
献華祭(秋祭り期間中)
・10月-12月
明治祭(11月3日・中祭)
新嘗祭(11月23日・大祭)
煤払祭(12月13日)
天皇誕生祭(12月23日)
杉盛づくり(12月27日)-杉の枝約2,000本を使用した大きな杉飾りが奉納される
師走大祓式(12月31日)-社殿左前の祓所で人を模った人形によって、穢れを清める神事
道饗祭/除夜祭(12月31日)-師走大祓式と共に、当日参加が可能な祭典

○所在地
兵庫県神戸市中央区下山手通1丁目2-1

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